奨励

64になったら


奨励 百合野 正博〔ゆりの・まさひろ〕
奨励者紹介 同志社大学学生支援センター所長
同志社大学商学部教授
研究テーマ 説明責任を負っている集団の提供する情報の検証の重要性について

あなたの御言葉は、わたしの道の光
わたしの歩みを照らす灯。
わたしは誓ったことを果たします。
あなたの正しい裁きを守ります。
わたしは甚だしく卑しめられています。
主よ、御言葉のとおり
   命を得させてください。
わたしの口が進んでささげる祈りを
   主よ、どうか受け入れ
あなたの裁きを教えてください。
わたしの魂は常にわたしの手に置かれています。
それでも、あなたの律法を決して忘れません。
主に逆らう者がわたしに罠を仕掛けています。
それでも、わたしはあなたの命令からそれません。
あなたの定めはとこしえにわたしの嗣業です。
それはわたしの心の喜びです。
あなたの掟を行うことに心を傾け
わたしはとこしえに従って行きます。

(詩編 一一九編一〇五―一一二節)


64になったら

 今日は、久しぶりに車で学校に来ました。普段運べない機械や本をたくさん運んできたのですが、肝心のここで話す原稿を家に忘れてきてしまいました。幸いファックスがあったので助かりました。もし家内が外出していたり、ファックスの調子が悪かったりしたら、大変申しわけないことに、即興でお話をしなくてはならなかったのです。けれども一つ一つが上手くまわって、五分前に原稿を手にすることができました。チャペル・アワーの奨励であったからこそ天は見放さなかったのではないかと思います。

 先ほど越川先生が「ロクジュウヨンになったら」と読んでくださいました。それが正しいのです。奨励のたびにテーマをいろいろ考えましたが、考え倒れと言いますか、あまりアピールしませんでした。今回も懲りずに、これをロクヨンと読んで、Nintendo 64の話だと間違ってこないかなどと思って、あえてフリガナをつけませんでした。実際は、「六十四歳になったら」ということです。

 ロクヨンをカタカナで書いてみて、順番を変えるとクロヨンになります。前回の今出川でのチャペル・アワーは、二〇〇二年七月三日でした。テーマは「ドン・ホアンかドン・キホーテか―大島正先生のこと―」でした。大島先生は同志社大学商学部の元教授で、スペイン語の先生だったのですが、スペイン語の先生というよりも、サラリーマンに必要経費を認めよ、という訴訟を国に対して起こした人として名前が残っています。われわれサラリーマンの税金を減らしてくださった大恩人なのです。私は講義の中では頻繁に大島先生のことについて触れていたのですが、商学部の監査論を受ける学生だけではなく、もっと幅広く知ってもらおうと思いチャペル・アワーで話をしました。

 最近、サラリーマンの所得税の控除(給与所得控除)が多すぎると税制調査会長が言っています。これを実際の必要経費の額に下げるべきだと。大島先生は必要経費のこともおっしゃいましたが、むしろ税金の不公平について訴えました。サラリーマンは源泉徴収という形で、給料を払う側が天引きして納税する義務がありますので、いやでも税金は持っていかれるのです。それを自主申告できるように認めるか、あるいは自営業者の必要経費ぐらいを、サラリーマンにも認めよ、という要求でした。せっかく勝ち取った必要経費約三割分ですが、今は不景気で、税収がないということで、これは多すぎるという話とくっつけられることは心外であります。自主申告にすればいいと政治家は言っていますが、現在全国で十名ほどしか自主申告をしていません。それは、自分でするのは非常に厄介であることと、必要経費の範囲がとても狭いということです。実際にわれわれが、もっと幅広く自分で考えて自主申告ができる制度になれば、引き換えでもいいかなと思います。そのかわり税務署は徴収するのに大変手間がかかるはずです。おそらく、そのことは残したまま、税制改革をしようとしているのではないかと思います。黙っていたら、いつのまにかそうなってしまうので、社会に出たら常に世の中に目を向けて、是非、黙っていないで、われわれが国のプリンシパルであると、税金はわれわれのために使われるべきだというふうに見張ってほしいと思います。最近の増税の動きと前回今出川キャンパスでの、チャペル・アワーでのテーマとを、最初に引っ掛けて、やはり大島先生との功績を今もう一度、見直す必要があるなと改めて思っています。

 再び今日のテーマに戻りますが、ビートルズの歌に"When I'm 64"(64になっても)というのがあります。今日は歌ってもいいのですが、グリークラブもいますし、歌の上手な越川先生もいらっしゃるので、気が引けるのですが、・・・やっぱり少しだけ歌ってみようと思います。

When I get older losing my hair,

Many years from now.

Will you still be sending mea Valentine

Birthday greeting,bottle of Wine.

If I'd been out till quarter to three

Would you lock the door,

Will you still need me,will you still feed me,

When I7m sixty-four.

 「歳をとって六十四歳になって頭がはげても僕のことを愛してくれるかい?」というラブソングです。私は今六十四歳でもないし、来年六十四歳になるわけでもありません。ふと頭に浮かんだのでこの歌について調べてみると、実はジョン・レノンが生きていたら今六十四歳なのです。今年の秋で六十五歳になるはずでした。また、つい先日、G8・先進国首脳会議に合わせて、世界中のいろいろな国で開催されたライブ8というコンサートがありました。二十年前にライブエイドというチャリティーの大コンサートがあったのですが、最後に"We are the world"を歌ったあのコンサートです。それをもう一度ということで、今回は、ライブエイドではなく、ライブエイトという名前でコンサートが開かれたのです。冒頭をポール・マッカートニーとU2が、"Sgt.Pepper's Lonely Hearts Club Band"という曲をその当時のレコードジャケットの衣装で演奏しました。"When I'm 64"はその"Sgt.Pepper's Lonely Club Band"に入っている曲です。実は、あまりよく考えないで選んだテーマでしたが、結果的には時宜にかなっているのではないかと思います。私は、六十四歳まで後八年ありますので、人生を年代ごとに八歳ずつに区切って、振り返ってみようと思います。

八歳までのこと

 私の一番幼い時の記憶というのは二歳の時です。病院の中庭にヤギがいて、看護婦さんにだっこしてもらいながら、ヤギのひげをひっぱって「これなに?」と言っていたことが、記憶にはっきりと残っています。その時、私は肺炎で府立病院に入院していたのでした。月給ひと月分ぐらいのペニシリンを打ったと聞いています。幸いにも回復し、退院した記念に大丸の写真屋さんで写した写真が残っています。

 三歳の時ですが、父親が勤めていた大阪国税局へ連れて行かれて、環状線から大阪市内を見たという記憶もあります。焼け野原というわけではありませんが、鉄骨のままの工場もあって大変暗い印象でした。大阪国税局の中に防空壕があり、そこで遊んだ記憶もあります。この当たりが小さい頃の記憶です。

 この後は八歳ごとに話したいと思います。八歳で、有名人ではチャーリー・チャップリンが「ランカシャーの八人の少年」という出し物で始めてステージに立って、タップダンスを踊ったのだそうです。チャップリンの父親は、芸人でしたがまもなく死亡し、母親は精神病院への入退院を繰り返し、悲惨な状況の元で成長し、俳優へそして映画製作者になったそうです。

 私はその時室町小学校の二年生で、担任の先生は丸田先生でした。ある日なぜなのかわかりませんが、立たされまして、なおかつ椅子の上にも立たされ、そして最後は机の上に立たされ、「百合野どうや?」と言われ、「いろいろなものが見えて、気持ちいいです」と答えると、先生は「しゃーないやっちゃ、降り」と言われた記憶があります。丸田先生が「百合野、三年生になったら学級委員になれるかもしれへんな」とおっしゃった時に学級委員がわからなくて、「楽器委員」だと思い、「楽器の置いてある部屋で何をするんやろ?」と考えた記憶があります。チャップリンが八歳でステージの上でタップダンスを踊ったレベルと大きな違いです。

十六歳の時

 十六歳でブッダは、同い年の少女と結婚し、息子が生まれて間もなく真夜中に家を出て、頭を丸めて放浪の旅に出たそうです。私は府立朱雀高校一年生でした。母親に何度も聞かされていやになったのですが、保護者会で担任の先生が「百合野君は社会が苦手なので、大学に行くためには北尾君に社会を教えてもらいなさい。そして、百合野君は英語を北尾君に教えてあげなさい」と言われたそうです。確かに日本史も世界史も苦手でした。現在、社会科学を研究し、講義しているのは皮肉だなあと思います。

二十四歳の時

 二十四歳の時オードーリー・ヘップバーンは「ローマの休日」でアカデミー賞をとりました。私は大学院の一年生でした。学部の四年生の時に十二指腸潰瘍を患い、よれよれの状態で進学した大学院での指導教授だった西村民之助教授から、研究者になる気はないかと言われて、初めてそのような人生もあるのか、研究者になろうかなと考えたのが、二十四歳の時でした。その時は、先のことが全くわかっていませんでした。

三十二歳の時

 三十二歳で、ショーン・コネリーは「007は殺しの番号」でジェームズ・ボンドを演じました。今見返しても、完全なおっさんですが、三十二歳なのです。私は賃貸の公団住宅から分譲の公団住宅に引っ越した年でした。昨今、ガソリンの値段がずいぶんに上がっていますがその当時は一リットル一六五円でした。なぜ、そんなことを知っているのかと申しますと、実は私はずっと手帳をつけていて、それを全部残しているのです。今回のチャペル・アワーの話をするにあたって、八年ごとに見返しました。今の私の手帳は会議や出張が多く、真っ赤になるほど予定がつまっていますが、そのころの手帳は真っ白でした。ただ、最初の翻訳書を三人の商学部の先生とで出版した歳でもありました。少しは研究者らしくなってきたかな、という感じです。

四十歳の時

 次は四十歳の時ですが、パール・バックが、誰でも書名を知っている『大地』を書いてピューリッツァー賞を受賞したそうです。その収入は七〇〇万ドルもあったそうですが、このほとんどを、アジアの国々にいるアメリカ兵の私生児の基金のために寄付をしたのです。

 私はどうだったかと言いますと、それまで書き溜めた論文は、その頃の監査論の常識に挑戦して、一貫して経営者の不正をテーマに論文を書き続けていたところ、たまたま一九八八年に、アメリカの監査基準が変わりまして、公認会計士は専門家としての懐疑心を持って監査をしなさい――つまり、経営者が不正をしているかもしれないことを意識して監査をしなさいと、一八〇度方向を変えた年でありました。それは、私が主張していた方向だったのですが、それまで書き溜めた論文を本にしておけば、アメリカの監査基準よりも一歩早くそのことを世に問うことができたと大変悔やんだ年でした。

 日本の経済でいうとバブルの最後の年でもありました。

四十八歳の時

 四十八歳。世界的な規模ではヨハネス・ケプラーが一六一九年に惑星の運動に関する第三法則を発表した年齢です。あるいはエドマンド・ハリーが一七〇五年にハレー彗星を予言したのも、四十八歳でした。よく、理系の人は若い時にすばらしい研究をすると言いますが、歳をとってからでもいい研究ができるという好事例ではないかと思います。

 私はどうしていたかと言いますと、日本会計研究学会の全国大会を同志社で開催しました。懇親会に舞妓さんを呼び、出席された人に舞妓さんとツーショットを撮って送ってあげたことが、大変好評でした。学会の方でも出席された方々が、早期からたくさんの人が同志社のキャンパスを楽しまれたのです。九時半から始まるので、私は一時間前に着いていたのですが、その時に何人かもう来られていて、キャンパスを見学したり、スケッチをしたりして、その絵を自分の本の中に取り入れた会計士の方もおられました。多くの方が同志社大学がこんなにすばらしいキャンパスだと知らなかったとおっしゃいました。同志社のキャンパスにいる者にとっては、クラーク館に象徴される重要文化財がいくつもあり、レンガ造りの大変落ち着いたキャンパスだということは、世間の常識であると思っていました。ところがそうではなかったことが大変ショックでした。同志社はあまり知られていないということを思い知らされました。この時から、同志社をもっとアピールしないといけないという気持ちが湧いてきました。二〇〇〇年三月の『大学広報』にそのことを書きました。

 たまたまこの年に、大阪市のヤミ手当のことを朝日新聞に書きました。今から八年前の話ですが、最近またヤミ給与のことが大きな問題になっています。私がコメントしても何も変わっていないのです。

 この年に私はRoverという車を買いました。新島先生が、アメリカへ乗っていった船の名はワイルド・ローヴァーです。私が乗っているのはRoverです。どうでもいいかもしれませんが、新島先生がアメリカでお世話になったのがシーリー先生です。私が寝ているベッドはシーリーベッド。これは神の啓示でしょうか?Rover社はつぶれてしまったので、今の車は大事に乗らないといけないと思っています。

 そして、ボクシング部の部長を引き受けました。この年はすばらしい成績で、秋の京都府アマチュア大会で三人も優勝しました。ベルト戦では一人が優勝したのです。言ってみればこの時から、今の私の生活がスタートしたと言えるのかも知れません。

五十六歳の時

 そして五十六歳ですが、エッフェルさんがエッフェル塔を建設し「鉄の魔術師」と呼ばれました。実は今日の話には種本があり、その本で調べてお話をしているのですが、この年齢を過ぎると、だれだれが、死んだとか病気になったとかをよく聞くようになります。けれども、五十六歳を過ぎても大きな仕事をした人もいるのです。

 私はと言いますと、今年は、学生支援センター所長をしていて、毎日何か仕事があるというとても忙しい毎日を送っております。

 この学生支援センターというのは日本の大学の中でも先進的な試みをしていて、学生がたらい回しにならないような仕組みを作ろうとか、「啓発支援」「障がい学生支援」「異文化交流促進」を推進しようとしています。昨年度文科省の特色GPに応募し見事に採択されました。

 その前年、私は入試センター所長をしていました。前任者の仕事を引継ぎ、全学統一入試日を設けて、同じ学部を二回受けたい人にチャンスを与えるという改革をしました。受験科目も増やしました。政治・経済、現代社会、そして、理系では生物を入れ、文系の数学はⅡBまで広げました。出題者がいないと言われましたが、ずっと、各学部を回ってお願いをしましたら、一人を除いて、OKしてくださいました。そのことで、案外やってみたら、できるのだなと思いました。

 先ほど言いましたように、白紙の多かった手帳が今は真っ赤になって、やることがたくさんあるのですが、順番に片付けていけば、案外全部できるではないかと、歳をとってもできるなと思ったことが、この三年での実感です。

六十四歳になったら

 さて今日のテーマの六十四歳で大きな研究をした人にスコットランドの数学者ジョン・ネーピアという人がいます。二十年間にわたって数値表を計算し続けたそうです。その後、対数という新しい概念を一六一四年に発表しました。先ほど言いましたように、理系は若いうちにと言われていますが、これもそうではありません。

 私が、六十四歳になったらどうなっているでしょうか。今日の私の話は、若い時に才能を発揮する人もいるけれども、反対に、若いうちは泣かず飛ばずだけれども年をとってから仕事をする人もいるということでした。

 私が大器かどうかは別にして、晩成という意味では、私は五十歳の時に本を書きました。アメリカの監査基準が変わって、本を出さなくて後悔したと言いましたが、その後やはり本を書くことにして、若い頃に書いた論文も使い、明治大正時代の日本の研究水準が大変すばらしいということを一冊の本に書きました。経営者の不正問題に絞って書きました。出版したのは一九九九年でちょうど私が五十歳の時でした。

 結論のひとつは、アメリカの会計監査制度というのは世界で一番優れていると言われている、しかしその制度の問題点は経営者不正に弱点を持っているということでした。その当時、日本の監査は非常に遅れていると批判されていました。ところが出版して二年目に、ご存知かもしれませんが、エンロン事件や、ワールドコム事件という企業不正事件がアメリカで起こりまして、その結果アメリカの大手の会計士事務所がひとつつぶれてしまいました。つまり、アメリカの監査制度は経営者不正に弱いということが、図らずも実証されたということになります。ノーベル賞をもらってもいいのではないかと思ったくらい、内心誇っているのですが、学会賞ももらえないまま今日に至っています。

 しかし、やっぱり、本を出版しておいて良かったと思っています。三十歳の時に本を出していたら、おそらくこのことに気付かなかっただろうと思います。アメリカで公表されるいろいろな意見書の翻訳に少し毛がはえたような本を出したのではないかと思います。

 研究成果を世に問うたのは遅かったけれども、五十歳になって、そこまで考えつづけた本を出版したので成果を生んだのではないかと思います。つまり、成果が出るのは遅かったけれども、その時々に関心があるものには注意を払って、真剣に対処してきたのではないかと思います。もちろんそれが、伝統芸能であったかもしれないし、切手の収集であったかもしれない。研究を始めてからは、日本の監査制度をよくするため、あるいは日本の社会制度をよくするためには何が必要なのかを考えてきました。テーマはばらばらで、まとまっていなかったけれども、しかし、ちゃんと一冊の本になった。日々あるのものに心を向け続けたら、その先は自然に見えてくるのではないだろうかという気がしています。

 私が六十四歳になったらどうなっているでしょうか。相変わらず今と同じように好奇心を持っていて、やれることは順番に片付けて、そして、チャンスがあれば、このように皆さんの前で話をして、自分の考えていることを聞いてもらっているのではないかと思います。

 話の最初にビートルズの歌から奨励の題を選んで、少し手直しをして「六十四歳になったら」というテーマにしたと言いましたが、ここでそのテーマをビートルズの曲名に戻して、「64になっても」と言い直して本日の奨励を終らせていただきます。ご清聴ありがとうございました。

二〇〇五年七月六日 水曜チャペル・アワー「奨励」記録


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