奨励

神様の像(かたち)(imago Dei)

奨励 崔 弘徳〔ちぇ・ほんどく〕
奨励者紹介 同志社大学神学部嘱託講師
大韓イエス教長老会(統合)牧師

 神は言われた。

 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
 神は御自分にかたどって人を創造された。
 神にかたどって創造された。
 男と女に創造された。
 神は彼らを祝福して言われた。
 「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

(創世記 一章二六―二八節)

 「人間とは何か」という問いに対して、キリスト教の神学では聖書に基づいて多様な面から答えます。例えば、人間とは被造者であるとか、神様の像(かたち)であるとか、あるいは罪人であるということです。こうした諸規定のなかで、今日は「人間とは神様の像である」ということについて考えてみたいと思います。今日の箇所の二七節を口語訳で見ますと、「神は自分のかたちに人を創造された」と記されております。これに基づいて「人間は神様の像である」というのです。「像(かたち)」に該当するヘブライ語は「チェレム」(tselem)ですが、もともとそれは「実際に塑造したもの」、「コピーしたもの」、「偶像」などを意味します。ところが人間は「神様の像」(imago Dei)であると言う場合、それは、ある外見的なものを指すのではなく、むしろ愛・聖・義などといった属性的なものを指します。もちろん属性的なものといっても、具体的に何を指すのかに関しては、いろいろな解釈がなされているのが実状です。以下では「神様の像」を霊的、関係的、そして代理的な側面から取り上げ、そこに含まれているメッセージを皆様と一緒にお聴きしたいと思います。

人間は霊的存在です。

 「ヨハネによる福音書」四章二四節によりますと、神様は霊です。これにしたがって考えてみれば、神様が「自分のかたちに人を創造された」という二七節の内容は、まさに神様ご自身は霊を本質とするがゆえに、人間を霊的な存在に創造されたと理解することができます。それでは、なぜ神様は人間を霊的な存在に創られたのでしょうか。先ほど言及しました「ヨハネによる福音書」四章二四節をもう一度見ますと、「神は霊である」と述べてから、続いて「だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(以下、特に明記しない場合は新共同訳)と述べております。これによって分かるのは、霊的な存在である神様は人間に霊をもって「礼拝」することを求めておられるということです。神様は人間からの礼拝を通して、人間との交わりを望んでおられます。実は、神様は人間を交わりの相手として創造されました。ですから人間は礼拝をもって神様と交わりをすべきです。この礼拝には神様に対する畏れと敬いが含まれていなければなりません。これは創造の面と救済の面から考えられることです。まず、創造の面から見ますと、神様は創造者であり、他方、人間はあくまでも被造者です。ですから創造者なる神様と被造者なる人間との間には、一定の区別があります。決して人間は神様になることができないし、神様の前に近づくこともできないし、さらにはまるで神様のように無限の力をもつこともできないのです。ただ人間は神様の前では畏れるしかありません。キルケゴール(S. Kierkegaard)の言葉を借りて申しあげますと、神様と人間との間には「質的な差」があるということに気づいた場合にのみ、人間は神様の前で畏れをもって礼拝することができるのです。
 しかしながらこのように畏れだけをもって礼拝するのは、本当の意味では、真の礼拝とは言い難いと思います。やはり神様に対する敬いがなければなりません。この敬いは愛に基づくもので、根本的には神様の愛に気づいている者がもち得るのです。ここで救済の面から考える必要があります。神様は人間を遥かに超えて存在される方ではありますが、人間を愛されたため、その人間が罪人となったにもかかわらず、変わらぬ愛をもって、その人間に恵みを注いでくださいました。すなわち、神様はご自分の独り子であるイエス・キリストを十字架に引き渡すほど、我々人間を愛してくださったのです。こうした神様は我々にとって決して遠いところにいらっしゃる方ではなく、むしろ変わらぬ愛をもって我々と共に歩まれる方です。ですから我々人間は神様を愛し、神様に感謝しながら、敬いをもって礼拝をしなければなりません。
 このように霊的存在としての我々人間は、畏れと敬いをもって霊である神様に礼拝をする際、はじめて神様との親密な交わりができます。神様との正しい関係が成り立つのです。

人間は関係的存在です。

 今日の箇所の二七節を見ますと、「男と女に創造された」と記されております。神様は人間を創造される際、一人の人間だけを創られたのでなく、複数の人間を創られました。このことは、人間は決して一人で生きることはできない理由があるからだと考えられます。言い換えれば、人間は他の人との関わりのなかで生きていかなければならないという意味になります。事実、他の人との関わりをもつ存在としての人間とは、三位一体なる神様の内的関係性に基づいております。もう少し具体的に申しあげますと、神様は人間を三位一体という内的関係性の像である存在として、他人との関係のなかで生きるように創造されたのです。「三位」という観点から見ますと、三位一体なる神様にとって各々の位格は全く独立された存在です。各々の位格は各々の固有性をもっておられます。他方、「一体」の観点から見ますと、各々の位格は一致された一なる神様として存在されるのです。これについて伝統的には、本質において唯一なる神様であるといわれてきましたが、特に、現代神学においてはその本質を「愛」(ヨハネの手紙一 四章八―一六節を参照)の面から具体的に考え、神様は愛のなかで一人のお方であるということが強調されております。もちろんこの愛は無限であり、無条件であり、決して変わらぬアガペー(agape)を指します。
 まず、各々の位格が一体になることにおいて、そのアガペーを具体的にあらわすのが「ぺリコーレーシス」(perichoresis)という御業です。「ペリコーレーシス」は「相互浸透」という意ですが、もともとは「環になって踊る愛のダンス」を指すギリシア語です。これに関して一つの例をもって申しあげますと、天地創造の場合、明らかにそれは父なる神様の主導的な御業ではありますが、父なる神様はご自分だけでその御業を実現させるのではなく、むしろ御子なる神様と聖霊なる神様との一致のなかで、言い換えれば各々の位格は相互に協力し合って、その御業を行われます。ここに三位一体なる神様における位格相互の一致、あるいは同一視する(identify)ことが現れます。こうした一致、あるいは同一視する御業は、もちろん三位一体の内的関係における性質とは全く同一のものではありませんが、神様と人間との関わりのなかでも見られます。聖書から一つの例を取りあげますと、「使徒言行録」九章四節にはキリスト教徒を迫害するためにダマスコに向かっているサウル(パウロ)に、復活されたイエス・キリストが現れ、呼びかけられた内容が記されております。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」。よく考えてみれば、パウロは直接イエス・キリストを迫害したことはありません。しかしイエス・キリストはご自分自身を信じているキリスト者を迫害するのは、とりもなおさずご自分自身を迫害することであると受け止められております。すなわちイエス・キリストはご自分自身とキリスト者を同一視されたのです(マタイによる福音書 二五章三一―四六節も参照)。こうした相手と同一視することも他ならぬアガペーの一側面です。
 しかしながら神様のアガペーが決定的にあらわされたのは、やはりイエス・キリストの十字架にかけられた死です。「ヨハネの手紙一」四章一〇節を見ますと、このように記されております。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ここで言及されている愛はアガペーです。この節を通して分かるのは、神様のアガペーは、決定的には愛の相手である人間のためにその独り子をお与えになったことです。御子の死をもってアガペーを立証されたのです。「エフェソの信徒への手紙」五章二五節には、「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになった」と記されております。同じように御子なる神様は教会を愛されましたが、その愛がゆえに教会のため喜んで死なれました。やはり死をもってその愛を立証されたのです。これがアガペーの本質です。
 三位一体なる神様の像として創造された我々人間も、一方では自分自身の固有性を保持しながらも、他方では他の人との関わりのなかで生きていかなければなりません。無人島で一人だけ暮らすか、あるいは引きこもってしまうか、さらには周りの人とは何の関わりもなしに、もっぱら自分自身だけに目を向けて歩むのは、神様の像としての人間に相応しい行いではありません。我々が他人との関わりにおいて、真にアガペーの精神をもつならば、他人、すなわち相手と健全な関わりのなかで生きることができます。そのためには何よりも、我々は他人、すなわち相手を自分自身と同一視する必要があります。別の言葉で申しあげますと、それは相手の立場に立つことです。相手の立場に立って相手に配慮しながら、相手の立場から考えてみる、さらには相手のために行なうことです。こうしたアガペーの精神は究極的には、相手のために死ぬほどのレベルまで高められねばなりません。本当の意味でこうしたアガペーの精神をもっているならば、相手を愛することにおいても、自分自身のために相手を愛するのではなく、相手のために相手を愛するようになるのではないでしょうか。

人間は代理的存在です。

 今日の箇所の二八節を見ますと、神様は人間を祝福して言われました。「・・・・・・地を従わせよ。・・・・・・すべて支配せよ」。これも学者によって多様な面から解釈されている節です。その一つはやはり生態学との関わりのなかで解釈していくものでしょう。しかしながら今日は殊に「従わせよ、支配せよ」という命令形の言葉に重点を置き、それも「自然環境」との関連からよりも、一人の生涯における「生の環境」、言わば「社会的環境」との関連で考えてみたいと思います。
 考古学的な研究結果によりますと、古代近東の時代においては皇帝が多くの国を治めていましたが、遠いところに位置した小さな国の場合には皇帝が直接行かずに、その代わりにその国に皇帝の銅像を建てて置きました。そうすればその国の人びとはその銅像を見て、皇帝の勅命を覚え、それを守っていたそうです。ここで言う「銅像」というのはヘブライ語で「チェレム」(tselem)です。神様が人間をご自分自身の「チェレム」(像)として創造されたという御言葉は、ここで見られるように考古学的な意味でも捉えることができます。すなわち人間はすべてにおいて神様から王的な権限や権能を受けている代理的な存在であり、まるで神様の大使のような存在です。それほど力をもっています。ところがこの力はバルト(K. Barth)が指摘したように、ただ有能性とか、可能性とかを有している、ある面ではいわゆる暴力までも行使できる「力自体」としてのpotentia ではなく、神様の愛や聖や義などに基づいているpotestas です。まさにそれは、人間の生まれながら有している内在的な力ではなく、聖霊を通して神様から与えられた力です。我々人間は、こうしたpotestas の性質をもった力を受けております。ですからその人間の力には一定の制限があるにもかかわらず、それをもって人間はすべてを支配することができるのです。使徒パウロは、「フィリピの信徒への手紙」四章一三節で「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と述べております。「すべてが可能です」という言葉だけを聞くならば、それは何よりも驚くべきことでしょう。しかし、これは自分の生まれながらの力をもって何時でも、何処でも振り回すことができるという意味ではありません。あくまでも神様(イエス・キリスト)から与えられている力をもって、神様の愛や義に基づいて自分の生の環境を十分乗り越えていくことができるという強い信念であり、信仰告白なのです。
 人間は生まれてから誰でも自分の生の環境のなかで生きていくようになります。特に問題となるのは、人が自分の目から見る際、良くないと思われる生の環境、辛いと思われる生の環境でしょう。たとえば、ある病とか、コンプレックスとか、貧しさとか、家庭不和とか、人間関係の悩みとか、事業の失敗といった様々なことが挙げられます。この場合、我々はどうすれば良いのか分からなくなってしまうこともあります。ここで神様は我々人間に言われます。「それらの環境を乗り越えなさい、否、支配せよ」と。神様からpotestas の性質をもった力を受けている我々人間は、「万事が益となるように」(ローマの信徒への手紙八章二八節)働いておられる神様を固く信じながら、良き方法をもってこうしたいろいろな生の環境を乗り越えていかなければなりません。このような観点から見ますと、神様の像としての人間は、神様との関わりのなかで常に肯定的な考え方をもっている存在であり、楽観的な存在であるともいえます。それゆえに、我々人間は自分自身に充実し、自分の生のために最善を尽くして努力することによって、神様の栄光をあらわすべき存在なのです。
 これまで、神様の像としての人間とは如何なる存在なのかについて述べてみました。まとめてみますと、この人間とは健全な関係性のなかで生きていくべき存在であるといえます。まずは神様との関わりにおける霊的存在であり、次は他人(触れてはいないが、また自然)との関わりにおける関係的存在であり、最後には自分自身との関わりにおける代理的存在です。しかし、もともと人間は罪を犯して堕落することによって神様の像を失ってしまいました。そこで神様は罪のない、真の「神様の像(かたち)」であるイエス・キリスト(コロサイ人への手紙一章一五節、口語訳参照)を通して、神様の像を回復することができるように、我々に御恵みを与えて下さいました。ですから誰でもイエス・キリストの中に居るならば、すなわちイエス・キリストを信じるならば、新しい存在、神様の像が回復された存在として生きることができます(コリントの信徒への手紙二 五章一七節参照)。

二〇一〇年四月二十七日 火曜チャペル・アワー「奨励」記録

[ 閉じる ]