地の塩、世の光
奨励 |
原 誠〔はら・まこと〕 |
奨励者紹介 |
同志社大学キリスト教文化センター所長 同志社大学神学部教授 |
研究テーマ |
日本とアジアのプロテスタント教会の歴史 |
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
(マタイによる福音書 五章一三―一六節)
地の塩、世の光
春学期の最後の日となりました。今日で授業が終わり、明日から試験が始まります。それぞれに、自分の前に与えられている課題に対して全力で取り組んでいただきたいと思います。 試験が終わると夏休みとなります。通常の学期中にはできない新しい経験や出会いによって、ひとつ成長することができるように願っています。 さて、この春学期、キリスト教文化センターでは、今日の奨励題に挙げ、また週報にも記載してあるように「地の塩、世の光」という言葉をチャペル・アワーの統一テーマとしておりました。その最後に、改めてこの聖書の箇所から考えてみたいと思います。 この春学期のなかでも、幾人かの先生がこれを主題に語ってくださいました。 印象に残っているところでいえば、上山先生がそうでした。ご自身の韓国への留学体験や大学での学び、日本人への差別について、両国の架け橋となることをご自身の使命とされていることを語ってくださった。 そのときにも触れられたことでありますが、私たちが、この聖書の箇所を読むときに、「地の塩」・「世の光」を、正反対の事柄として概念規定しようとすることが多いと思います。 「地の塩」とは、自己主張をせずに、おのれの姿を溶かして、虚しくして、見えなくして、他者のために、味を付けるために、あるいは保存をするために、あるいは日本の文化伝統でいえば清めの塩ということでしょうが、そのような性質、役割として理解する。 もう一つの「世の光」とは、これとは正反対に非常に明確な、たしかな存在として、自己主張を示すこととして説明されてきたように思います。 わたしもこの奨励の準備の過程で、今までのわたしの体験、経験のなかで、数多く例として挙げることができますが、例えば沖縄に学生と一緒に行ったとき、沖縄戦の直中で、自然の濠、ガマといいますが、そこに逃げ込んでいた人びとのことを思い起こすために、その濠、ガマに懐中電灯をもって入り、そして懐中電灯を消したときに現出する、本当の漆黒の、鼻をつままれてもわからない、本当の闇のなかでつける一本のマッチの光の存在。 これによって方向がわかります。そしてその闇のなかで、そこに逃げ込んだ人びと、思い、痛みによるうめき声、赤子の泣く声、看護婦さんを呼ぶ声、煮炊きの匂い、マキが燃える匂い、そして傷から流れ出るウミの匂い、糞尿の臭い、そして米軍の攻撃の音、一切を含めて、希望のないなかでの、一本のマッチ、それはローソクの場合も同様、他者を照らすために使命があり、自らの生命を削る、というようなことです。
このように地の塩、世の光を正反対のこととして理解し、例として説明するということは、実は、間違いではないとしても、イエスが語った事柄とは、少し違うのではないか、と思うようになりました。
新しい見方
これは、わたしの今までの読み方が間違っていたとはいえないとしても、日々に読み返し、読み直し、新しい意味を発見する、という、そのような事柄です。 聖書の言葉に、いわば正面から向き合い、言葉に沈潜し、そのメッセージを聞き、これに従う、ということだと思います。 神学、聖書学、新約聖書学、それぞれが細分化され、科学的に、歴史的に、実証的に研究が進められていくなかで、例えば、福音書のこの言葉は、イエスが直接話したのではなく、著者の信仰や価値観、神学が投影されているのではないか、というような議論がなされもします。そのようことについての議論はありますが、わたしの理解するところでは、この「地の塩、世の光」という表現は、確かにイエスが語った言葉だと思います。
有名な箇所ですが、改めて読んでみます。
◆地の塩、世の光
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
例えば親は、息子や娘に対して、お前たちは、こうあってほしい、そうなってほしい、という将来に対する願望・期待をもちます。また私たち教師は授業を通して、このように理解してほしい、このような人間になってほしい、という期待・願望があります。もし教師が学生に、そしてその後の将来に対してまったく期待しなくなったとしたら、教師の資格そのものが失われると思います。 しかしイエスが語った事柄・宣言は、キツイ言葉で言えば断定、です。規定です。われわれに対する宣告です。「である」というストレートな、決定的な、間違いようのない言い方です。期待・願望・自己実現、ではなく、また私たちの都合・能力・趣味・事柄によっては、向き不向きなど実に多様性があるでしょうが、それら一切、私たち人間の側の都合・適正・可能性ということを考慮していません。適正。ということは、私たち人間の側からはあれこれ説明をしたくなるところでしょう。例えば六十歳を過ぎた老人に、「一流のスポーツ選手になれ」と言われても無理です。 しかし、イエスが語るのは、「~である」という断定です。命令です。 塩が役に立つこと、役に立たなければ「外に投げ捨てられる」。 また光がなければ、方向を見いだすことができない、これも役に立つか立たないか、ということでしょう。 そしてこの聖書の箇所のいわば結論は、「地の塩である」、そして「世の光となる」私たちが、また私たちの働き、存在そのものを通して、「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」ということです。神が確かに存在し、生きて働き、それによって突き動かされ、働く私たちによって、「天の父を崇めるようになるため」、このために私たちが生きている、という人間に対する使命・職務を明確に宣言しています。
宣言を受けて
もちろん、今、私たちの多くは大学という機関で学びの直中です。しかも試験が始まります。そして今、その意味では猶予期間といえるかもしれません。とはいえ本質的には、私たちが大学で学ぶ目的・意味・意義とは何かを、この聖書の言葉の前に立ちながら、自分自身に問いかけることができます。そして大学を卒業後の何十年にもおよぶ、社会人としての生活や、人生、生活全体が、この聖書の言葉に対して、どのような反応をするのか、ということでしょう。 そして、そもそもの、何が「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるため」のことになるのか、という問いをもつということでしょう。
平和を求める祈り(アシジの聖フランシスコ)
わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。 憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしを。 分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、 誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、 闇に光を、悲しみのあるところに喜びを
もたらすものとしてください。 慰められるよりは慰めることを、 理解されることよりは理解することを、 愛されることよりは愛することを、わたしが求めますように。 私たちは、与えるから受け、ゆるすからゆるされ、 自分を捨てて死に、永遠のいのちをいただくのですから。
私たちが道具となること、道具としてどのようなものを作りあげるのか。戦車を作るための道具となるのか。
神が、目には見えないが、生きていて、私たちの具体的な世界に関わりをもち、それへのコミットの仕方のなかで、この世界、人生の一番深いところで、生きている意義、深い肯定へと促されていき、ここにこそ打算で生きるのではなく、希望をもち、感謝して生きていく励みとなる、ということでしょう。 とすれば、これらの事柄は、抽象的・観念的な議論、あるいは感想、(感想文というような)思いの事柄ではなく、あるいは心のなかの、わたしの魂の平安・安心・立命ということが主題なのではなく、「人びとが崇めるかどうか」というこの一点にかかっており、それは文字通り、具体的な人間関係や、社会関係、すなわち関係のなかで、そのことを明らかに「見て」、「崇めるようになるかどうか」ということになるでしょう。 われわれ自身が、今この世のなかで、時代のなかで、この場所で、日本というところで、京都というところで、同志社大学という学びの時間・空間で、そのような関係を築いているか、この聖書の箇所から、改めて、私たち一人ひとりの使命、課題として示されるのです。
二〇一〇年七月二十七日 火曜チャペル・アワー「奨励」記録
|