奨励

大学で学ぶ、同志社で学ぶ

奨励 鈴木 直人〔すずき・なおと〕
奨励者紹介 同志社大学心理学部長
同志社大学心理学部教授
研究テーマ 感情心理学、環境心理学、精神生理学

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

(マタイによる福音書 7章7―12節)

大学と高校の
学生生活の違い

 皆さん、おはようございます。新入生の方は、同志社大学へのご入学おめでとうございます。それ以外の学生の方は、進級おめでとうございます。新学期で何かと落ち着かない日々が続いていますが、このように水曜チャペル・アワーの時間をもつことができたことに感謝をいたします。今日は「大学で学ぶ、同志社で学ぶ」と題して、お話ししようと思います。
 さて、学生の方にお伺いします。現在、皆さんは、大学生として生活をされています。大学生と高校生、何が違うのでしょう。私は2011年3月まで、同志社小学校の校長をしておりました。その関係でいろいろなところで講演会を依頼されたり、最近は、教員の免許更新のための講習、そういったところでも話をしたりすることがあります。対象は小学校・中学校・高校の先生方が多いわけですが、その先生方にお話をするときに、皆さんと私たち大学教員との違いはどこにあるのか、おわかりですかということを、よく質問をします。一番大きな違いは、教員免許をもっているかどうかということだろうと思うのです。小学校・中学校・高校の先生方は教員免許を取得するために大学の教職課程を履修され、教育方法といったものを身につけ、教育実習も経験され、試験に合格されて先生になられているわけです。それに対して我々大学教員というのは教員の免許というものはありません。必要としていません。もちろん教員免許を取っている人はいらっしゃると思いますけれども、基本的に多くの先生は教員免許をもっていません。教育方法を学んだこともありません。そういう人が多いかと思います。もちろん教育実習も受けていない。試験もありません。我々大学教員というのは、免許ももたず、試験も受けずに教壇に立って偉そうにしゃべっている、そういう人種であるわけです。
 ではなぜ小学校・中学校・高校では教員免許が必要なのか。こういうことだと思うのです。小学校・中学校・高校の先生は、ただ単に授業を「教える」だけではなくて、児童や生徒の心身、そういったものの発達、成熟、あるいは道徳観などを「育む」ことが、教員としての使命に含まれているのです。それに対して我々大学教員は、極端な言い方をすれば、ただ単に専門的なことを教えていればよい。その学生の人物が育っていく、成熟していくということに特に責任を負わされてはいない。これが大学の教員なのです。大学生は人間の発達段階でみたら、青年期の後期ないしは、もう成人期に入っている人もたくさんいます。すでに自我が独立している人に対して、さらに自我の発達を促すようなことは、大学教員に求められていないということなのだろうと思います。つまり、大学生としての生活と高校生としての生活はおのずから違ってくるということです。大学での教え方、大学教員の皆さんに対する姿勢は、小学校・中学校・高校の先生方がもっているものとは違うのです。大学の学校生活と高校までの学校生活の一番大きな違いは、大学では自分の意思で自分の置かれている環境、状況を考えながら、何事も克服していかなければなりません。それが大学の学生生活だということです。原則的に言うと、誰も助けてくれません。ただ、最近は、大学がそこまでやる必要があるのかというようなことも、やりだしています。大学で本当に必要なのだろうかと疑問に思います。大学でそれが本当に求められているとしたら、日本の社会は駄目になってきているのではないかな、と私には思えて仕方がありません。

自分で責任をもたないと
ならない大学生

 高校時代までは、たとえば学校を無断で欠席すれば、担任の先生から自宅にすぐ問い合わせの連絡が入ったと思います。常に誰かが、皆さんのことを気にかけて、注意を向けて、必要があればサポートをしてくれました。ただ、そういうことをされることが鬱陶しくて仕方なかったという人が、この中にもいるかもしれません。でもそれが、これまでの高校生活だったと思います。ところが、大学ではそういったことはありません。これは極端な言い方かもしれませんが、誰も皆さんのことに注意を向けたりはしません。もちろん親友がいたり、クラブに入っていたり、そういう状況があれば、「ああ、今日はどうしたんだろう。学校に来ていないな」と気にしてくれる友達はいると思いますけれども、原則として、皆さんの個人的な出来事に、あまり気を向けなくなります。大学では、自分で責任がとれれば、何をやるのも自由です。もちろん自宅生であるとか、いろいろな状況で変わってきます。法に触れたり、道徳上、何らかの問題があるということでない限り、基本的に何をするか、何を考えるかは大学では自由なわけです。誰も、皆さんの行動に干渉はしてきません。講義に出ようと、出まいと皆さんの自由です。単位を落として留年しようと、しまいと、それも皆さんの自由です。自分の責任でやっていただければよいわけです。高校時代のように先生が一生懸命引っ張ってくれるようなことはありませんし、何を、どこまでやったらいいかというレールを先生が敷いてくれるということも、基本的にはありません。自分で考え、自分で計画し、自分で実行に移していく。それが大学です。

大学教育の役割

 では、我々大学教員の役目とは何なのかということですけれども、皆さんが成人として、大人として、これから生きていくうえで、物事をどのように見るのか、どのようにとらえるのか、どのように考えるのか、そういうことを身につけていくのを手伝う。これが私たち大学教員の役目だと私は思っています。たとえば、あなたはそういう見方をしている。そういう見方は間違いではない一つの見方かもしれないけれど、こういう見方もできる。私はこういうようにも思いますよ、というようなことを情報として与えていく。あるいは、こういうように考えたらどうなるでしょうね、と考えるヒントを与える。これが大学というところです。いずれにせよ、判断するのは学生の方ご本人です。我々がこうしなさい、ああしなさい、と言うことではない。なぜならその人は自立しているから、自我が独立しているから。成人だと思うからです。このような立場で皆さんに接するのが、我々大学教員の役目です。

求めたらば、与えられる

 しかし、学生の皆さんがただ手をこまねいていて、教員が何か提供してくれるのを待っている状態では、我々大学教員は、何も与えることができません。つまり待っていたら駄目なのです。自分から働きかけていかない限り、何も得られません。私は、「大学というところはただ待っていても、何も与えられないところですよ。誰も何もしてくれません。でも、自分から求めていったときには、きっと何かを得られる。それが大学という場所です」ということを、よく学生の皆さんに言います。待っていたら何も得られない。でも求めれば与えられる。求めないと与えられないと言ってよいかもしれない。それが大学だと思います。ある人は、何もしない。何もしないことを欲しているかもしれません。何もしないことを欲している成人に、ああしなさい、こうしなさいと言うことは僭越です。そんなことをする必要もないし、された方にしたら邪魔に思うかもしれません。自分の方で何かサインを出す。こうしてほしい、知りたいというサインを出してくれている人には、いろいろなものを与えていく。これはいくらでもできることです。私はクリスチャンですけれども、私がクリスチャンとして一番駄目なのは、宣教をしないことだと思っています。一切、人に勧めたことはありません。「クリスチャンになったらいかがですか。紹介しますからこの教会に行きましょう」と誘ったこともありません。ただ行きたいという人がいらっしゃったら、いつでも連れて行きます。「今度この教会に行きましょう」と一緒に行ったり、紹介したりします。それが大学だと思うのです。我々ができることは、それだけだと思うのです。まさに先ほど拝読したマタイによる福音書の7章7節「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。大学というのは、こういう場所だと思います。大学は自分で求め、探し、門を叩かなければ何も与えられないところです。これが大学です。しかし自分で門を叩いたり、求めたりすれば何かが見つかる。与えられる。すばらしいものが与えられることもあります。私はそれが大学だと思います。ぜひ自分の意思で門を叩いていただきたいと思います。

大学では何を学ぶのか

 皆さんは教科書に書かれていることは絶対的だと、たぶん思ってこられたのではないかと思います。また、それを信じていらっしゃると思います。しかし、大学で勉強すると教科書に書いてあることが間違っているということに気がつくことが結構あります。講義の終了後、質問してくる学生に「いやあ、知らんなぁ、そんなことは」と答えると、「え?先生、そんなん、知らんの」と言う学生がよくいます。知らないから、勉強しているのです。研究しているのです。知ろうとして考えたりしているわけです。わかっていることを覚えるだけだったら教科書を読めばよいのです。本を読めばよいのです。
 大学というところは、勉強するところ、知識を得るところ、それだけではないと思います。わかったつもりでいることでも、実は、よくよく考えてみると、あるいはよく調べてみると、よくわからないなということがよくあります。調べてみればみるほど、よくわからないこと、不思議なことがいっぱいあるわけです。こことここ、実はこういう話なのに、端的に結びつければ、そういうことになるんだろうけれど、でもよく考えてみるとこうなっている。実はいろいろなことを考えていくと、違う結論になるということが、たくさんあるのです。あたりまえのことだと思ったことを、もう一度やり直してみたら、発見につながるということも結構あるかと思います。これも言い換えますと、大学というのはわかったことを教える場所ではない。むしろ大学では決まっていない、わかっていないことを考えたり、研究したりする場所なのです。また、どう考えていくかということを学ぶ。自分ならどうするのかということを学んでいく。それが大学という場所です。

やりたい事をもっている
人は伸びる

 話は少し変わりますけれども、皆さんは、同志社大学に、第一志望で入られたのでしょうか。あるいは第二志望、あるいは滑り止めでこの大学に入った方もいらっしゃるのではないかと思います。もし同志社が皆さんにとって滑り止めの大学であったとしても、この大学に入った以上、それを悲観するのではなくて、何かを求めてみてください。第一志望の大学に入った人でも、もしその人が求め、探し、あるいは門を叩かなかったら、たぶん、何にも得られません。わかっていただけますでしょうか。どこに行っても積極的にアプローチしていかない限り、何にもならないわけです。不満を言っていても、何にも身にはつきません。それが本当に自分の行きたいところであったって、やっぱり不満を言っているだけにすぎない。そういうことになってしまうのだろうなと思います。
 とにかく積極的にアプローチしてみてください。大学院でも同じことです。私も、もう大分長いこと大学院教員をやってきました。同志社の大学院博士課程に入りますと、博士論文を書くというのが一つの使命になってきます。博士論文を書かない限り、研究職につくことはほとんどできない時代になってきましたから、就職のためには博士論文を書かなくてはなりません。ところが、博士論文を書く学生、書ける学生というのは成績優秀者とは限らないのです。
 成績が優秀だったらみんな博士論文が書けるかというと、書けないのです。どういう学生が書けるかというと、やりたいことをもっている学生、好奇心をもっている学生なのです。大学院に入る時に、入試の勉強に四苦八苦して受かるか、受からないかわからない、そういう成績であったとしても、入ってしまえば、全然、問題はありません。やりたいことをもっている人は、さっさと学位論文を書き、現在一流の研究者になっている人がたくさんいるのです。逆に、学部の成績でも、大学院の入学試験の成績でも、抜群に良い成績をとっているから、その人は学位論文を書いて博士号を取ったかというと、実は取れていない人がたくさんいるのです。結局、大学院のなかでは何もできずに、鳴かず飛ばずで終わってしまう。そういう学生も、今までたくさん見てきました。やりたいこと、自分で積極的に何かをやるか、やらないか。アプローチしているか。研究しているか。それが結局、一人前になっていく一つの方法で、極端に言えば、頭が良い悪いはどうでもよい問題なのです。第一志望の大学に入ったとか、滑り止めだったとか、そういうことはどうでもよい。これからが大切、そのように考えていただければと思います。

同志社で学ぶ

 大学で学ぶという話は、ここまでにしまして、同志社大学で学ぶということについての話をしようと思います。皆さんは、同志社大学に入られました。同志社って、どういう大学なのでしょう。何を大事にしてきた学校なのでしょう。先に結論だけ言いますと、皆さんは、私学に入られたのです。私立の学校です。国立とは違うのです。私学には私学の志、目指すものがあるわけです。創立者の教育理念と言えるかもしれません。それが何であるかはそれぞれの私学により異なります。私学に入った以上、その大学が、あるいは学校が何を目指しているのかということを学ぶべきだと思うのです。同志社がどういう学校であって、私はここで、このようなことを学んだということの方が、勉強や研究でこういうことを学びましたということよりも、よっぽど価値があります。みんなが研究者になるなら別です。専門家になるなら別です。多くの方々は会社に入って、一般社会に出ていくわけです。そこで自分が学んできたことがどれだけ生かせるかということより、身につけた大学の理念、学校の理念というものの方が、よっぽど生きるうえにおいては、価値があると私は思います。
 ある大学は、新入生を大阪ドームに集めてイベント風と言ってもよいような入学式をされています。同志社大学の入学式は、皆さんご存じのように、京田辺校地のデイヴィス記念館で行われます。まずオルガンの演奏をして、それから聖書の朗読、祈祷、その後には同志社設立の旨意を読み、最後にカレッジ・ソング、祝祷で終わるという、キリスト教の礼拝形式で行われています。卒業式も原則、基本的に全く同じ形式がとられます。この入学式や卒業式の違いというのは、他の大学との違い、同志社の特徴を表していると思います。
 大学だけではなく、法人同志社の諸学校での式典は、全部同じ形式で行われます。式典のなかで、学長、総長あるいは校長や園長が、「新島が」、「同志社の精神は」、「キリスト教主義は」、「国際主義が」、「自治自立だ、自由だ」というようなことをいろいろな形でおっしゃいます。卒業式も、同様です。昔、神学部のある先生が数えたら、式辞や祝辞、お祈りのなかに「同志社の精神が」という言葉が数十回も出てきていたとおっしゃっていました。私は入学式や卒業式で、そのことが言われることは極めて重要なことだと思っています。なぜかというと、同志社というのは福沢諭吉の建てた慶応義塾と同じように、建学の理念を表に出している学校だと思うからです。これだけ建学の精神だ、校祖新島の考え方だということを言っている学校は全国でもほとんどないのではないかと思います。

与えるは受くるより
幸いである

 1868年、江戸(東京)上野の地で、彰義隊と薩長軍が戦う戊辰戦争の一つ、上野戦争がありました。その時代、三人の有能な教育者は、それぞれ日本の将来にとって必要な教育について別々のことを考えました。福沢諭吉は、上野の山の砲声の音を聞きながら、日本の将来にとって必要なものは学問である、学問をきっちりとすべきだと考え、慶応義塾をつくりました。これからの時代は、政治家や実業家をつくっていく必要があると考えた大隈重信は、早稲田をつくりました。もう一人の教育者である新島は、日本にとって必要なことは人材の育成だと考えました。同志社の言葉でいうと「良心を手腕に運用する人物を育成すること」。これが必要だと考えて、同志社英学校をつくったのです。では、新島が考えた、同志社で育成しようとした人材とはどんな人なのでしょうか。新島が逝去したときに、今出川から若王子の墓地まで2本の幟を立て、柩を担いで学生が登って行きました。1本にはこういうことが書かれていました。「彼等は世より取らんとす/我等は世に与えんと欲す」。徳富蘇峰が新島襄の教育理念を表す言葉として選んだと聞いていますが、そういう言葉を揚げていました。この言葉は、聖書の使徒言行録20章35節に「受けるよりは与える方が幸いである」という言葉がありますが、この言葉を言い換えたものではないかと思います。「受けるよりは与える方が幸いである」。与うるは受くるより幸いであるという古い聖書の言葉の方が好きですけど。そういうものではないかと思います。

良心に基づく行動とは

 新島が考えていたのは、このような精神に基づいた教育なのかなと思います。新島が、同志社が、目指してきた教育は「良心教育」とよく言われます。同志社の学校案内にも出てきます。良心とは、難しい言葉です。おそらく校祖新島が意図した良心、総長が考えている良心、学長が考えている良心、キリスト教文化センター所長が考えている良心、私が考えている良心、先輩たちが考えている良心。それぞれ若干、違っているのではないかという気がいたします。
 私は良心をこういうふうに考えます。私の学生時代に、商学部の教授に大島正先生という方がいらっしゃいました。大島先生は私の同級生のお父さんだったのですが、この先生はサラリーマン税金訴訟(大島訴訟)で有名な先生です。当時、サラリーマンの税金が高すぎるということで、皆がお上(かみ)にたてついて、というなか、訴訟を起こされました。現在、我々はその恩恵に預かっているわけです。もう一つ15年くらい前に、同志社ラグビー部に鬼束竜太君という選手がいました。彼はペナルティ・キックを蹴らず、ペナルティを得ると、すぐにボールを持って走る。ランニングラグビー、現在はあたりまえのことなのですが、その当時、どこのチームもペナルティを得るとキックを狙うわけですが、彼は蹴りませんでした。我々は応援していて「ペナルティ・キックを狙え」と叫ぶのですが、決して蹴らないのです。怒声が聞こえるのですが、それでも蹴らない。彼は決めていたのです。ペナルティを得たら走ると。今のランニングラグビーの草分けではないかと思います。岡仁詩先生の話ですと、鬼束君が最初ではなくその前の年からだったようです。同志社ラグビー部をつくられた先生と言って過言ではない先生だと思います。先生とお話をしたことがあります。岡先生が語られたことで、非常に印象的な言葉があったので、皆さんにご紹介しておきたいと思います。「僕はオール・フォ・ワン、ワン・フォ・オールという言葉は嫌いだ」と。ラグビーの代名詞のような言葉ですが、「皆は一人のために、一人は皆のために、僕はあれ、嫌いなんだよ。あれ、だめだと思う」と。エッと思わず聞き直しました。先生は、「一人が皆のことを考えて行動していたら、その人の本当の力を出すことはできないよ。あるいは本当に皆が一人の人のことを考えて行動したとすると、それも本当の意味での力を出せない。本当の意味での力を発揮できるのは自分がもっている力を全部出しきったときに、それが結果としてチームのためになったとき、それが本当の力だ。それで強い力を出すことができるんだ」と言われました。自分がもっているものを全部、出し切って、それが結果として力を出せる。皆のためを考えて、一人のことを考えて行動していたら、それは無理があったり、本当にもっている力を出さずに終わってしまう。さすが岡先生の言葉だと思いました。
 鬼束選手たちラグビー部員は、誰が何を言おうと、彼を中心に自分たちの行いを信じ、正しいものとして信ずる道を歩いたということだと思います。大島先生も、そうだろうと思います。陸上の朝原宣治選手もそうです。プロ野球から何度誘われてもアマチュア野球にこだわり、日本代表のキャプテンとしてオリンピックに出場した杉浦正則という選手がいましたが、彼も、その一人だと思います。自分が正しいと信ずる事柄に対して、世間の多少の荒波があったとしても、自分の身を処することのできる人物、これが私の思う「良心」をもった人物ではないかと思います。自分が正しいと信じたら、たとえ反対があったとしても、それを突き進んでいける、自分をそのなかに処することができる、それが良心をもつ人間ではないかと思います。ぜひ皆さんも、そういう同志社人になってほしいなと思います。私もそういう同志社人を目指したいと思っております。

同志社のめざす教育は
バランスの取れた心育

 以前、新入社員の研修会で総長の大谷實先生がおっしゃったことを紹介させていただきます。同志社というのは、どういうところかということを端的に表していると思います。大谷先生は法学部の教授ですので、司法研究科について語られました。司法研究科は弁護士や裁判官を目指す学生、司法試験に合格させることを目的とする専門職大学院です。司法研究科は、司法試験に合格させること、そのための授業を行うこと、それが目的です。全国のほとんどの大学の司法研究科は、そういう教育をされるだろうと思います。ところが、大谷先生は同志社の司法研究科はそれでは駄目だと言われたのです。ただ単に司法試験に合格できるだけの知識を身につけさせるのが同志社の司法研究科の目的ではない。それでは駄目だ。それでは何が必要かと言うと、彼らが将来、弁護士や裁判官になったとき、一人の人間として、人ひとりの大切さを覚えることができる。覚えて、行動することができる人物、そういう弁護士・裁判官になってほしい。そういう人物をつくらないといけないのだとおっしゃいました。大谷先生の講演には、同志社の、新島が目指したものが端的に表されていると思います。同志社で行う教育は、ただ単に知識を教えること、知育に偏ったものではなくて、キリスト教を基盤においた徳育も育むこと。新島はこれを「心育」と呼んだと思います。知育と徳育を両輪とした心育、これが同志社の目指すところだろうと思います。ただ同志社の教育には、もう一つ加えた方がよい。それは体育です。同志社マーク、知・徳・体を表す同志社マークがあります。国や土を意味するアッシリア文字を、湯浅半月が考案したもので、知・徳・体の三位一体を表すということは、聞かれたことがあると思います。同志社のマークは、バランスのとれた、調和の取れた人物の育成を目指したものです。このマークはバランスの良い形をしています。バランスがとれたというのは同志社人を語るときのキーワードではないかと思います。同志社という学校は、知力は高いが人間的にどうかという人間や、スポーツは超一流だけど、人間としてどうなんだろうという人間を育てる気は全くない。これが同志社だというふうに私は思います。
 最後に谷川俊太郎さんが作詩した同志社小学校の校歌を紹介しておきます。2番にこういう歌詞があります。「かんじる/つたえる/おもいやる/からだはやさしいちいさなうちゅう/ひとのいたみ かなしみみつめ/ほほえんで てをつなぐ/あすをねがって いのるきょう」。その後に「えらいひとになるよりも/よいにんげんになりたいな」と続きます。同志社マーク、三角形がバランスはいいが、下を向いているのに気づかれた方はいらっしゃいますか。下を向く、下を見る。understandingです。理解する。相手のこと、ものごとを理解するには下を見る。上からの目線では見えません。ちゃんと下に降りて同じ立場に立って考えることが必要ですよ、ということも、こじつけかもしれませんが、実は意味していると言われます。私もこの話を聞いたとき、思わず膝を打ってしまいました。身体の不自由な人にとっては日本福祉大学と並んで施設的なものが整っているという意味では、同志社は全国でもトップクラスです。今出川校地の古い校舎でも何らかの形で、有終館以外は全部、車椅子で入ることができるようになっています。ハード面は確かに整っています。ソフト面はどうでしょうか。同志社の精神を学んでいただければ、ソフト面も整っていくことになるかと思います。同志社は決して上に立つ人間、政治を、経済を動かそうとする人物だけを養成しようとした学校ではありません。困っている人、苦しんでいる人たちと同じところに立って支えていく人物を養成しようとした学校です。卒業生には、山室軍平など、社会福祉に大いに貢献された方々もいらっしゃいます。
 同志社は長年にわたり、多くの先輩たちが伝統的に守ってきたものがあると思います。それは、新島の理念・キリスト教主義・自由主義・国際主義、これらが実は同志社がぶれないための海図、羅針盤だと思うのです。大切なものとして受け継いでいかないといけないものだと思います。昔は講義のなかで、このような話をされる先生がたくさんいました。最近では大学の講義のなかで、同志社の理念について語られる方は、ほとんどいらっしゃらないと思います。それで「同志社科目」がつくられたわけです。私たちの学生時代は授業の合間に、ふっと話に出てくることが、よくありました。理念、建学の精神、私学は志のある学校だと。志があるのが私学なのです。私学に入った以上、その志を学んでもらうこと、これを身につけてもらうこと、それは大学で学ぶ学問としての勉強より、いろいろな意味で学ぶ価値がある、皆さんの人生にとって重要なものになってくると私は思います。

2012年4月11日 京田辺水曜チャペル・アワー「奨励」記録

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