奨励

野心家たれ!

奨励 大谷 實〔おおや・みのる〕
奨励者紹介 同志社総長

 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

(ルカによる福音書 11章9―10節)

野心家とは

 本日は、新入生の皆さんに、これからの大学生の心構えについてお話しします。タイトルを「野心家たれ!」としましたので、おそらく皆さんは、「大政治家になれ、大事業家になれ」、あるいは「宇宙の時代に相応しい生き方をせよ」といった内容の話を期待されたのではないかと思います。確かに、野心家とは、国語辞典によりますと「密かに抱く大きな望み」あるいは「身分不相応な大きな望み」とか、例えば「政治家になりたいという野望を持つ者のこと」とありますが、今日お話ししようとするのは、皆さんもよくご存じの札幌農学校クラーク博士の「Boys, be ambitious(青年よ、大志を抱け)」という言葉についてであります。

「青年よ大志を抱け」

 クラーク博士(1826―1886)は、マサチューセッツ農科大学の第3代学長のときに、明治政府の熱心な誘いで1876年(明治9年)に来日し、札幌農学校(現北海道大学)の教頭として教鞭を執りました。その間、内村鑑三や新渡戸稲造などに深い感化を及ぼしたことは、よく知られています。その後帰国し、1886年にアメリカの東部アーモスト市(新島襄が学んだアーモスト大学の所在地)で亡くなりました。余談になりますが、2003年5月に、私はアーモスト大学で名誉博士の学位を授与された折に、アーモスト大学の近くに建立されたクラーク博士のお墓にお参りしてきました。
 それはさておき、博士は、札幌農学校を辞して帰国する際に、有名な「Boys, be ambitious」というメッセージをおくり、生徒たちを激励しました。一般に、「青年よ、大志を抱け」と訳されていますが、「ambitious」には、「野心的な」という意味があることは、ご存じのとおりです。そこで、クラーク博士が本当に言おうとしていたことを解明しておきたいというのが、今日の奨励の「狙い」です。
 ところで、「青年よ、大志を抱け」という言葉は、今では名言の一つとして、この言葉だけが一人歩きして有名となっていますが、実は、それに続く言葉がクラーク博士の本当に言いたかったところなのです。
“Boys, be ambitious! Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement, not for that evanescent thing which men call fame. Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.”訳してみますと、「青年よ、大志を抱け。それは金銭や我欲のためではなく、また、人が名声と呼ぶあの空しいもののためであってはならない。人間が人間として、当然備えていなければならない、あらゆることを成し遂げるために大志を抱け!」と呼びかけたのです。

人生の目的は人格完成

 では、「人間が人間として、当然備えていなければならない、あらゆること」すなわち「人間としてしなければならないこと」とは何でしょうか。それは、「人格の完成」であると明言したのは、新渡戸稲造博士でした。新渡戸稲造がかつて5000円札の肖像となっていたことは皆さんもご存じかと思いますが、彼は、1862年(文久2年)に盛岡に生まれ、札幌農学校でクラーク博士の教えを学び、東京大学に入学するときには、面接官に私は西洋と日本を結ぶ「太平洋の橋になりたい」と述べたというエピソードでも有名です。農学者であるとともに教育学者、倫理学者として活躍しました。英文で書かれた『BUSHIDO The Soul of Japan』は、多くの国で翻訳され、世界的に有名になりましたし、日本語で翻訳されて岩波文庫に収録されています。そして、東京女子大学の初代学長でもありました。
 その新渡戸稲造は、クラーク博士が「人間が人間として備えていなければならないあらゆること」(all that a man ought to be)と言った本当の意味は、「人格の完成」であり、クラーク博士は、「人格の完成を人生の目的」とする野望を抱け、つまり「大志」を抱けと説いたのだと言うのです。言い換えますと、「人格の完成」という大事業をやり抜くという「野心をもて。野望を抱け」つまり「大きな志」をもてと説いたのです。

人格の完成と教育基本法

 ところで、「人格の完成」という言葉は、日本の教育の根本となっている教育基本法という法律でも使われているのです。その第1条は「教育の目的」として、「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」と規定しています。つまり、「人格の完成」は、クラーク博士一人だけが説いただけではなく、今日の日本では、国民の代表者が国会で議論し、いわば国民の意思として規定された考え方、理念と言ってよいと思います。そうだとしますと、「人格の完成」は、国民の誰もが目標とすべきであって、諸君の人生行路の目標ともすべきものではないかと思うのですが、皆さんを含めて、人生の目的は「人格の完成」にあると真面目に考えている人は少ないように思います。いかがでしょうか。
 実際、2006年(平成18年)に教育基本法を改正しようとしたとき、改正前の「人格の完成」という文言を使うかどうかで議論がありまして、「人格の完成」というと「神様になる」ということであるから、キリスト教徒ならば理解できるが、キリスト教徒が国民の1%しかいない日本の場合は、「人格の完成」を教育の目標ないし理念とするのには問題があるといった反対論がありました。

人格完成の中身

 では、そもそも「人格の完成」とは、どういう意味なのでしょうか。普通「人格」というときは、人柄とか人品を指しますが、心理学的に申しますと、その人固有の考え方や行動のパターンのことです。こうした人格は、生まれながらの性格に由来する場合もありますが、ほとんどの場合、その人の努力で変えることができると言ってよいと思います。そして、人間はいろいろな面で成長できるのでありまして、肉体的成長や知的な成長と同じように、その人の意思ないし努力で人格の成長をもたらすこともできる。教育基本法は、このように考えて、「教育は人格の完成を目的として行われなければならない」としたのだと思います。
 問題は、「人格の完成」にいう「人格の中身は何か」にあります。具体的にどういう人格を目標に生きていくかということですが、文部科学省は「人格教育」をもって、「円満な人格の完成を目標とする教育」と言っていますから、おそらく「円満な人格」が目標とすべき人格ということになります。したがって、人生の目的は、円満な人格を作り上げることに帰着するということになります。確かに、円満な人格者になることは大変ですから、野望とするに値する大事業と言っても差支えないとは思います。
 しかし、諸君に、「あなたは、これから何を目標に生きていきますか」と尋ねたとします。それに対して、「私は、円満な人格者を目指して頑張りたい」と答えられたのでは、もうひとつ迫力がありません。なぜかと言えば、学校教育のように先生が子どもたちを対象として育てるという場合には役に立つのですが、自ら主体的に「人格の完成」に取り組む場合には、「円満な人格」だけでは不充分です。第一、生き甲斐を感じて幸せな気分になる人は、少ないと思います。

キリスト教では

 クラーク博士やその門下の新渡戸稲造、内村鑑三といった弟子たちの目標とした「人格の完成」について考えてみますと、3人ともクリスチャンですから、彼らは、当然、キリスト教の「人格の完成」を考えたと思われます。キリスト教によりますと、人間は、「神のかたち」に似せて創られたのであり、人間の一生は、一歩一歩「神に近づく」プロセスに過ぎない。私たちの人生行路は、人間の自由な意思に基づく努力によって、人格を完成させることでなければならない。この「人格の完成」を目指す長い旅路が人生行路であり、これこそクラーク博士が「大志を抱け」と説いたメッセージの中身だと思うのです。
 では、その大事業のために、私たちは、何をすればよいのでしょうか。答えは人によって異なってくると思いますが、私は、聖書の二つの言葉がキリスト教の本質を示しており、そこで求められている人格こそ、キリスト教が求めている人格だと考えています。
 その一つは、ヨハネによる福音書の聖句、「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章12節~13節日本聖書協会『口語訳聖書』)という一節であります。この隣人愛を導く人格、この人格を自らの力、努力で作り上げることが「完成」という意味だと思います。自分を愛するのと同じように隣人を愛するということは大変ですが、そういう難しい行動をとれるように、自己の良心に忠実に従って、自治自立の精神で「人格の完成」を全うするように努力する。そこに大きな喜びがあると思います。
 もう一つの聖書の言葉は、「『受けるよりは与える方が、さいわいである』」(使徒行伝20章35節より 日本聖書協会『口語訳聖書』)という一節でありまして、「与える喜び」を実践できる「人格の形成」が、大変重要であると考えます。

一つの結論

 偉大な英国人と言われた第二次世界大戦の英雄ウィンストン・チャーチルは、「人は受けることで生活を営むことができるが、与えることで真の人生を生きることができる」という名言を吐きました。「与える幸せ」を感ずることによって一歩一歩神に近づく。そのプロセスこそ人生行路であり、その結果、神の愛を完全に自分のものとするとき、「人格の完成」を自覚することができるというわけです。「人格の完成」は、自動的に達成されるものではなく、「人に与える」という行為から生まれる「喜び」、これを通じて人間として成長するのであり、それこそが「人格の完成」のための努力であり、人生にとっての大事業であると思うのです。これが本日の奨励の結論です。
 諸君よ、どうかこの人生の大事業をなし遂げるという野望、大志を抱いて生きていただきたい。これが学期初めの皆さんへのメッセージです。
 Boys and Girls, be ambitious!

2014年4月16日 京田辺水曜チャペル・アワー「奨励」記録

[ 閉じる ]