奨励

出会いとしての教育

北垣 宗治

同志社大学名誉教授
敬和学園大学前学長

講師紹介〔きたがき・むねはる〕  

私の学生時代

 私は、戦後の一九四七年四月に旧制の同志社大学予科に入学して一年間大学予科学生の生活を送り、制度の切替により新制の同志社大学に進学して四年間を過ごし、大学院で二年間英文学を勉強し、合計七年間にわたって同志社の教育を受けました。私は同志社を母校として誇りに思い、感謝の念はつきません。しかも卒業後は、母校の教員として三十六年間にわたって英語英文学を教えてきました。ですから私は同志社から何かを頼まれたならば、何をおいてもそれを引き受けなくてはならないと考えています。

 私は学生時代の七年間に、たくさんの先生方や友人に出会いました。しかし私の人生を決定付けてくださった先生は二人だけです。一人はアーモスト館の館長であったオーティス・ケーリ先生(OtisCary, 一九二一―二〇〇六)、もう一人は私の英文学科の指導教授であった上野直蔵先生(一九〇〇―八四)です。ケーリ先生からは人間になる教育をしていただきました。上野先生からは天職としての英語英文学の教師という方向付けをしていただき、しかも文学修士号を取得するやいなや文学部の助手に採用していただきました。私は就職の悩みを全く味わうことなしに就職できた、ラッキーな人間でした。ところでケーリ先生と上野先生とは大変仲がよかったので、私は精神的に余計な心配を経験することなく人生を歩むことができました。もしもあのお二人が犬猿の仲であったとしたら、私は人格的に分裂した人間になっていた可能性があります。

 したがって本当は今日、ケーリ先生との出会い、または上野先生との出会いの話をすればよろしいのですが、それは他日に譲り、今日は私とは、さほどなじみがあったとはいえない、しかしそれでも強烈なインパクトを私に与えてくださった一人の同志社人の話をさせていただきます。しかし、その話に入る前に、少し教育の問題を論じてみたいと思います。

大学における徳育

 皆さんは大学設置基準というものをご存知でしょうか。私は二十年ほど前に、一つの私立大学を新潟県に設置するために、非常に苦労したことがありました。一つの大学を立ち上げるには、国の大学設置基準に準拠してカリキュラムを作り、先生を集めなくてはなりません。その設置基準にはカリキュラムに関してこのように書かれています。「教育課程の編成に当たっては、大学は、学部等の専攻に係る専門の学芸を教授するとともに、幅広く深い教養及び総合的な判断力を培い、豊かな人間性を涵養するよう適切に配置しなければならない」。設置基準はここで、いわゆる専門教育は重要であるが、それに劣らず、教養教育が重要であると述べているのです。いま読んだとおり、大学は「幅広く深い教養」や「総合的な判断力」を培い、「豊かな人間性」を涵養する努力を欠かしてはならないのであります。

 すでに言い古されていることですが、教育では知育・徳育・体育の三要素と、それらのバランスが重要であります。これら三つのうち、どこの大学も知育を最も重視してきました。卒業に必要な百二十四単位のうち、体育関係の単位は四単位であり、これは総単位数のうちの三十一分の一に過ぎません。ところが徳育となりますと、普通の場合、全く単位に入りません。ボランティア活動を単位化しているような大学もありますが、その場合でもせいぜい二ないし四単位というところではないでしょうか。確かに徳育は単位化になじみません。しかし、それにしても、従来の大学は徳育を無視するか、徳育には全くお手上げの状態であったと言えそうです。

 私は大学における徳育に関心をもつものです。現に同志社大学が春と秋と、年に二回にわたり、同志社スピリット・ウィークというものを設けて、いろんな講師を招いて講義や講演や説教をしておられるのは、同志社固有の徳育の試みであり、私はこれを高く評価するものです。

 小学校以来の徳育について反省してみますと、確かに徳育には極めて具体的な一面があることは事実です。現代の大学にもごく少数ですが、学生の礼儀にやかましい先生がおられるでしょう。学生の服装や言葉遣いに注意を与える先生。学生の遅刻に厳しい先生。講義中、勝手に教室から出て行く学生があれば大声で注意し、注意を聞かなければ廊下まで追い掛けていく先生がおられるかもしれません。大学の教師にはドン・キホーテ的な性格が必要だと感じたことが何度かありました。

 現代の大学における徳育を考える場合、学生の服装や言葉遣いに責任を感じるような教師は、暁天の星の如くでありましょう。否、男子学生と女子学生が同棲しているからといって、大学ではだれも目くじらを立てたりしません。大学は学生を「大人」として扱うという原則は、暗々裏に大学構成員の間で了解されているからです。同棲は個人のプライバシーに属することであって、他人が口出しすべきことではない、というのが共通の了解でありましょう。

 それでは、大学における徳育は有名無実であり、大学には徳育のための責任はないのでしょうか。私はそうは思いません。総合的な判断力とか、深い人間性を培うことが大学に期待されている限り、そのための努力が徳育でなくてはならない、と私は思うのです。

アーモスト大学で

 当然のこととして、大学における徳育は知育と密接に関連しています。それが大学の徳育の特徴です。私はこのことを、ちょうど五十年前に留学したアメリカのアーモスト大学での経験をとおして説明してみたいと思います。私がアーモスト大学で学んだのはわずか一学期間、しかも取った科目は二科目だけでしたが、あのとき受けたインパクトはいまなお忘れ得ないものです。一つはセオドー・ベアード(TheodoreBaird)教授の「十八世紀英文学講読」で、このクラスで、ベアード先生は次から次へと学生に答えにくい質問を投げつけてきました。それはしばしば、十八世紀英文学とは何の関係もないように思われました。しかしよく考えてみれば、十八世紀の文人が悩んだ同じ問題を、二十世紀の我々もまた、多少形を変えて悩んでいたことが分かるのです。

 ある日ベアード先生は、ジェイムズ・ボズウェル(JamesBoswell)が有名な『ジョンソン伝』のなかに記録しているジョンソン(SamuelJohnson)博士の言葉を引用されました。「人間というものは知的な労働をとても嫌がるものだ。知識が簡単に入手できる場合ですら、多くの人はちょっとの苦労でそれを入手するよりは、無知のままでいることに満足するものだ」。そこで学生たちに向かって、こんな質問を提出したのです。「ここに今、一人の頭のいい理屈屋の高校生がいるとします。その高校生ならば先ほどのジョンソンの言葉にどのように反応すると思いますか」。学生がそれに何とか答えると、ベアード教授は、そのような答えをする高校生は、それではどのような立場に立つといえるのか、と。次に、ジョンソン博士自身は、あの発言をしたとき、どんな立場に立っていたのだろうか、と問い掛け、その上で、あなたならばどちらの立場を選ぶか、そしてその理由は何か、と問い詰めるのです。ベアード先生は何かというとすぐに、言葉の定義を求めてきました。それは簡単なようで、実に難しい問題でした。先生はこういう問題をぶつけることによって、学生の脳味噌を絞らせるのが常でありました。先生はソクラテスの方法を心得ていて、しばしば無知を装って出発し、一見ぶっきらぼうな、無謀とも思える問題を学生に投げ掛けていきました。学生は、自分の持っている全知識と、全判断力、全分析力を動員して対抗しなければなりませんでした。いつでも自分の人生観、世界観、歴史観が問い直されるのでした。ですから、自分と社会、自分と世界、自分と国家、自分と歴史、それらの問題が自由とか責任といった考え方を巻き込みながら、問われ続けたのです。

「教育とは対話である」

 私が経験してきた日本の大学の授業では、教授が教壇から講義し、学生はそれを黙って聞くという、一方通行的なものが大部分を占めてきました。講義の終りに教授が「質問はありませんか」と聞いても、質問はほとんど出ません。一方的な講義は「知育」には役立つでしょうが、はたして「徳育」には役立つでしょうか。双方向でのやりとりこそが徳育の方法ではないでしょうか。言い換えれば、対話の教育こそが重要なのであります。いみじくもアーモスト大学の前学長のトム・ゲレティ(TomGerety)博士は「教育とは対話である」という命題を繰り返し主張してこられました。そして、「対話としての教育」に続くのが、私の主張する「出会いとしての教育」なのであります。

 対話という言葉は元来、静かな雰囲気のなかでの話し合いを予想させますが、それが厳しいやりとりとなりますと、討論になります。私は討論もまた対話の一種だと考えます。私は一度、ハーヴァード・ロースクールで非常に面白い経験をさせてもらったことがあります。現在、同志社大学大学院の司法研究科の客員教授である藤倉皓一郎教授は、一九七六年当時東京大学法学部教授であり、ハーヴァードから客員教授として招かれていました。藤倉教授は私の長年の友人でありまして、ある日ハーヴァード・ロースクールの授業を見学させてくれました。それは忘れ難い経験でした。それはジェローム・コーエン(JeromeCohen)教授の主宰するクラスで、コーエン教授以外に、若いアメリカ人教授、藤倉教授、名古屋大学の日本人教授の四人が共同で担当する授業で、主題は日本の環境法でした。当時日本は四日市の公害訴訟問題等を経験し、環境法を世界で一番早く制定した国でした。ハーヴァードのコーエン教授は早速日本から二人の学者を客員教授として招き、四人で共同担当する科目を作ったのでした。

 私が見学した日は環境法に先立って、藤倉教授が日本の法制度の基本的な仕組みについて講義しました。階段教室にはほかの三人の教授と、五十人くらいの大学院学生が出席していました。このクラスでは講義の途中でストップをかけ、誰でも、いつでも、何を質問してもよい、という約束のもとに運営されており、学生たちはもちろんのこと、教授たちも平気で質問します。したがってこれは、まさしく真剣勝負のような時間でした。実に活発な意見が飛び交い、ときには笑い声も起こりました。日本の環境法を理解するために日本の法学者に講義させ、それに対してあらゆる角度から質問を浴びせかけつつ、理解を深めていき、主題の本質に迫ろうとする姿に、大学教育のあるべき姿を垣間見る思いがしました。ハーヴァードにおけるケース・メソッドの見事な徳育的性格が、法律の門外漢である私にも伝わってきました。

教育は出会いを通して

 私は、大学にはいろんな面で徳育の機会があると考えます。講義中のふとした脱線に、生涯忘れ得ないような感激を覚えることがあります。私の場合、五十七年も前に、ある教授が教室で、何かの拍子に「本を読め。どんどん読め。読んで忘れよ。忘れたあとに、鍛えられた精神を残せ」という、フランスの哲学者アランの言葉を引用されたのにいたく感動し、今でも時々それを思い出します。もしも教師が学生に言葉を通して、または行動を通して、インスピレーションを与えることができたとすれば、私はそれを「徳育の瞬間」と呼びたいのであります。

 本日、私が申しあげたいことは、本当の教育は出会いを通してなされるものだ、ということです。出会いなしによい教育はありえない、と私は主張いたします。むかし古代のギリシアでアリストテレスはプラトンに出会いました。二千年前のパレスチナのガリラヤ湖のほとりで漁師のペトロはナザレのイエスに出会いました。鎌倉時代の初期に親鸞は法然に出会いました。江戸時代の学者本居宣長は賀茂真淵に出会いました。古来、出会いは至るところで起こったのです。今挙げた歴史上の顕著な出会いをみると、出会いは教育であるばかりか、それは新しい学問、新しい宗教の創造の契機でさえあったことが分かるのです。

新島襄との出会い

 同志社においても顕著な出会いが起こっています。新島襄(一八四三―九〇)と徳富猪一郎(一八六三―一九五七)との出会いがその例です。新島襄という個性と、徳富猪一郎という強烈な個性は、しかし、初めからうまく出会ったわけではありませんでした。徳富は教師としての新島の限界については早くから気づいていたものと思われます。しかし彼は、新島には温かい包容力があることにも気づいていました。たとい反逆してみても、反逆しきれないものが新島にはありました。新島の教育に対するヴィジョンとそれに賭ける情熱は、徳富の遠く及ばないところでした。徳富は卒業間際に、あえて同志社を退学し、新島の説得を振り切って東京へと出て行きました。徳富は新島の許を去って初めて新島の偉大さを発見したのです。やがて新進のジャーナリストとして目覚しい成功を遂げた徳富は、今度は自分の力の及ぶ限り新島を助ける人となりました。新島が徳富猪一郎に宛てて書いた手紙は一一〇通以上残っていますが、それを読めば、晩年の新島が最も信頼を寄せていた弟子は、徳富猪一郎その人であったことがよく分かります。

 新島と徳富の関係に関して興味深いことは、徳富が同志社在学中に新島から洗礼を受け、伝道旅行に出かけるほどに熱心なクリスチャンとなっていたのに、年がたつにつれて信仰が冷えていき、新島に洗礼を返却することを願い出ていることです。洗礼を返却することはできない相談ですので、その件はそのままとなりました。徳富のキリスト教信仰は復活することがありませんでした。にもかかわらず、新島が最も信頼したのは信仰の冷えてしまった、もしくは、信仰を忘れてしまった徳富であって、信仰をもち続けた小崎弘道(一八五六―一九三八)などとは、教会合同の問題をめぐって対立関係に入っていったのでした。しかし新島襄の死期が迫り、死ぬ二日前に二時間をかけて新島が遺言を述べたとき、新島が枕元に立ち会わせたのは妻の八重と、小崎弘道と、徳富猪一郎でした。徳富が遺言をその場で筆記しました。徳富の筆になる新島の遺言書は今でも同志社に保管されています。

堀貞一牧師と南石先生

 皆さんは、新島襄の自責の杖の話を聞かれたことがあると思います。それは一八八〇年四月一三日に同志社英学校の朝のチャペルの時間に起こったことです。新島校長は、学校の措置に抗議して集団で無断欠席した生徒たちや、措置を誤った若い教員たちを罰する代わりに、校長自身を罰すると宣言して、右手に握り締めた杖で自分の左の掌を力いっぱい叩き続け、杖は三つに折れたのでした。この出来事を目撃して感動した生徒の一人が、堀貞一(一八六一―一九四三)でありまして、堀はそのとき杖の破片を拾い、自分の宝として保管していました。堀貞一はのちに牧師となり、新潟教会、横浜の組合教会、ハワイのヌアヌ教会、そして同志社教会で熱心に伝道を続けました。同志社教会牧師としての堀は、しばしば新島の自責の杖の話を臨場感に溢れて語り、あの杖の破片を示しながら、涙ながらに説教したと伝えられています。

 堀貞一牧師が横浜の教会で奉仕していた時期に洗礼を授けた青年の一人に、南石(みないし)福二郎(一八八三―一九七二)という人がいました。南石は純真素朴な青年で、当時からこつこつと英語を勉強していました。南石は堀牧師を通して新島襄の話を聞き、新島に対する尊敬の念を深めていきました。南石は独学で中学校の英語教員検定試験に合格し、やがて滋賀県大津市の膳所中学に就職しました。南石は英語教師として優秀であり、クリスチャンとして模範的な人物でしたから、同志社中学が英語教師として彼を招きました。彼は同志社教会に移り、教会の役員をも務めました。新島襄に対する南石の尊敬はますます高まり、新島に似たヒゲを蓄えるようになりました。そのヒゲのゆえに、生徒たちは南石先生に「まっこう」というニックネームを進呈しました。マッコウクジラからきたのです。南石はさらに刻苦勉励して、旧制高等学校の英語教員資格を取得しました。そこで、旧制同志社大学予科の教授として英語を教えたのであります。南石は非常に厳格な先生でありましたが、予科の名物教授であり、彼を一種の奇人と見做す人もいました。旧制大学予科教授時代の南石先生の面目を伝えるエピソードをご紹介しましょう。

 この話はかつての同志社大学法学部教授、そして大阪大学法学部教授を勤めたのち、大阪高等裁判所の判事をされた滝川春雄先生から私が直接に聞いた話です。戦前の同志社大学予科である日、野球の重要な試合があるということで、クラス全員で応援に行こうということになり、南石先生に英語の授業を休講にしてくださいと願い出ました。先生はもちろん許可しませんでした。そこで生徒たちは全員で授業をさぼることに決めて、野球の応援に行きました。しかし、級長だった滝川春雄さんは不安になり、野球場に行かないで、その時間そっと窓の外側から教室の中をうかがっていました。南石先生は学生が一人もいない教室にいつものように入ってくると、出席簿をあけて、「だれそれ君」「だれそれ君」と全員の名をいちいち呼び上げてから、「はい、全員欠席だね」といって、にっこり笑って教室を出ていったということです。

 南石先生の英語の点のつけ方は実に厳しく、零点はおろか、しばしばマイナス点をつけたといいます。この先生はご自分の息子さんが学生だった時期に、せがれは至って不勉強であるから、ぜひ落第させてほしい、と教授会で主張されました。同志社を退職した後も、古びた洋服に黒いコウモリガサを携え、町を歩く南石先生の姿を見かけました。同志社教会の会員として忠実に礼拝に出席し、献金の感謝の祈りを堂々たる声で、しかも文語調でささげる人でした。南石先生は退職後も英語の勉強を欠かさずに続けておられました。

南石先生の一喝

 私は南石先生から教室で習ったわけではありませんし、先生は私のことをご存知なかったと思います。にもかかわらず、私には南石福二郎先生に関して忘れることのできない思い出があるのです。それは私が学生時代に同志社教会の夜の集まりで、先生が聖書を朗読されたときのことです。私はこれから、南石福二郎式に、あの晩、南石先生が読まれた聖書の箇所を、先生のスタイルを踏襲して、読ませていただきます。当時の聖書は文語訳でしたが、今日は新共同訳を使います。これは旧約聖書のサムエル記下(一一章一節―一二章七節)に記されている物語です。あらかじめ主な登場人物を紹介しておきます。中心人物はイスラエルの王ダビデ、ダビデの将軍ヨアブ、ヨアブの部下で忠実な兵士であるヘト人ウリヤとその妻バト・シェバ、そして預言者ナタンであります。お聞きください。

 年が改まり、王たちが出陣する時期になった。ダビデは、ヨアブとその指揮下においた自分の家臣、そしてイスラエルの全軍を送り出した。彼らはアンモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデ自身はエルサレムにとどまっていた。

 ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。彼は屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた。女は大層美しかった。ダビデは人をやって女のことを尋ねさせた。それはエリアムの娘バト・シェバで、ヘト人ウリヤの妻だということであった。ダビデは使いの者をやって彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にした。彼女は汚れから身を清めたところであった。女は家に帰ったが、子を宿したので、ダビデに使いを送り、「子を宿しました」と知らせた。

 ダビデはヨアブに、ヘト人ウリヤを送り返すように命令を出し、ヨアブはウリヤをダビデのもとに送った。ウリヤが来ると、ダビデはヨアブの安否、兵士の安否を問い、また戦況について尋ねた。それからダビデはウリヤに言った。「家に帰って足を洗うがよい。」

 ウリヤが王宮を退出すると、王の贈り物が後に続いた。しかしウリヤは王宮の入り口で主君の家臣と共に眠り、家に帰らなかった。ウリヤが自分の家に帰らなかったと知らされたダビデは、ウリヤに尋ねた。「遠征から帰って来たのではないか。なぜ家に帰らないのか。」ウリヤはダビデに答えた。「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。あなたは確かに生きておられます。わたしには、そのようなことはできません。」ダビデはウリヤに言った。「今日もここにとどまるがよい。明日、お前を送り出すとしよう。」ウリヤはその日と次の日、エルサレムにとどまった。ダビデはウリヤを招き、食事を共にして酔わせたが、夕暮れになるとウリヤは退出し、主君の家臣と共に眠り、家には帰らなかった。

 翌朝、ダビデはヨアブにあてて書状をしたため、ウリヤに託した。書状には、「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」と書かれていた。町の様子を見張っていたヨアブは、強力な戦士がいると判断した辺りにウリヤを配置した。町の者たちは出撃してヨアブの軍と戦い、ダビデの家臣と兵士から戦死者が出た。ヘト人ウリヤも死んだ。

 ヨアブはダビデにこの戦いの一部始終について報告を送り、使者に命じた。「戦いの一部始終を王に報告し終えたとき、もし王が怒って『なぜそんなに町に接近して戦ったのか。・・・』と言われたなら、『王の僕(しもべ)ヘト人ウリヤも死にました』と言うがよい。」

 使者は出発し、ダビデのもとに到着してヨアブの伝言をすべて伝えた。使者はダビデに言った。「敵は我々より優勢で、野戦を挑んで来ました。我々が城壁の入り口まで押し返すと、射手が城壁の上から僕らに矢を射かけ、王の家臣からも死んだ者が出、王の僕ヘト人ウリヤも死にました。」ダビデは使者に言った。「ヨアブにこう伝えよ。『そのことを悪かったと見なす必要はない。剣があればだれかが餌食になる。奮戦して町を滅ぼせ。』そう言って彼を励ませ。」

 ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだと聞くと、夫のために嘆いた。喪が明けると、ダビデは人をやって彼女を王宮に引き取り、妻にした。彼女は男の子を産んだ。ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。

 主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の子羊のほかに何一つ持っていなかった。彼はその子羊を養い、子羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて彼の皿から食べ、彼の椀から飲み、彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに、自分の羊や牛を惜しみ、貧しい男の子羊を取り上げて、自分の客に振る舞った。」

 ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。子羊の償いに四倍の値を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」ナタンはダビデに向かって言った。「あなたがその人です!」

 お分かりいただけましたか。南石福二郎先生は、預言者ナタンの最後の言葉を、全力をこめて、一喝されたのでした。聞いていた私たちは、震えを感じました。旧約聖書というのは凄い本です。ダビデはイスラエルの王で、主なる神から豊かな祝福を受けて王位に就きました。正義を重んじ、神に忠実であったダビデですが、それでもなおこのような罪を犯しました。預言者ナタンの言葉を聞いて、ダビデが深く悔い改めたのはもちろんのことです。ダビデ王ですらこんな失敗をやらかす、それを聖書は隠さずに記録しているのです。信仰は罪の自覚から始まります。罪の意識なしには信仰はもてません。なぜなら、信仰とは私の罪を私に代わって引き受け、神との和解を達成するために、神の独り子イエスが十字架上の死を遂げられたことを信じることですから。

深い感化を受けた出会い

 新島襄から深い感化を受けた堀貞一牧師。堀牧師から深い感化を受けた南石福二郎先生。そして若いころに南石先生の「あなたがその人です!」という叫びを聞いて、いまなおそれを忘れることのできない私がここに立っています。出会いとしての教育は、私の場合、このような形で与えられたことを、本日は皆さんにお伝えしたかったのであります。

二〇〇七年六月十四日 同志社スピリット・ウィーク「講演」記録

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