学生の恋愛と新島襄
講師 |
北垣 宗治 〔きたがき・むねはる〕 |
講師紹介 |
同志社大学名誉教授 敬和学園大学元学長 |
徳冨健次郎と『黒い眼と茶色の目』
明治から大正にかけて活躍した作家の一人に、徳冨健次郎(一八六八~一九二七)がいます。彼は蘆花というペンネームで知られていますが、そのペンネームを使っていたのは一八八五年から一九〇六年までの約二十一年間のことで、今日お話しする作品、『黒い眼と茶色の目』を刊行した一九一四年にはもう蘆花を用いず、本名の徳冨健次郎で発表していました。彼の兄が徳富猪一郎(一八六三~一九五七)、すなわち徳富蘇峰という有名なジャーナリストであり、思想家であり、歴史家でした。Encyclopaedia Britannica という百科事典があります。日本で『大英百科事典』と呼んでいます。この世界的な百科事典に、徳富蘇峰は項目として載っていますが、弟の健次郎は載っていません。いな、猪一郎、健次郎兄弟の先生であった新島襄ですら、項目としては載っていないのです。新島は偉大な教育家でありましたけれど、まだ『大英百科事典』に項目として載るほどの評価を受けていないことは、同志社の一員として、ちょっと残念なことです。 たまたま昨日、日本文学者で、今日(十一月三日)文化勲章を受けるドナルド・キーン教授と昼食をともにしたとき、そのことを話題にしました。するとキーン先生が言いました。「それについては私に責任があります。ブリタニカから日本人のうち、誰を拾って掲載すべきかという相談を受けた時、私なりに名前を挙げていきましたが、当時は私の勉強が江戸末期までで、明治期を十分にまだ勉強していませんでした。徳富蘇峰の膨大な『近世日本国民史』は読んでいました。でも私はのちほど徳冨蘆花の日記を『百代の過客―日記にみる日本人』(下)の中で取り上げています。どうもすみません」と。 徳富猪一郎、健次郎の兄弟はどちらも同志社英学校で学び、新島襄の影響を受けました。しかし二人とも同志社を卒業しませんでした。兄の猪一郎は、卒業を目前に控えながら、新島襄の説得を振り切って退学し、東京へ出て行きました。弟の健次郎は失恋の痛手から回復できないまま、新島襄に手紙を残し、まるで夜逃げをするような形で同志社を去って大阪へ下り、ついであちこちを遍歴しながら故郷の熊本に帰りました。 私は今日、この徳冨健次郎の同志社時代における初恋のことをご紹介し、同志社英学校の校長だった新島襄がこれにどのように対処したのか、という点を目標に据えたうえで、話を進めてみたいと考えます。徳冨健次郎は『黒い眼と茶色の目』というタイトルの小説を出版しました。これは健次郎の同志社時代、ことに失恋に終わった彼の初恋の物語がその内容となっています。日本文学のなかに同志社の一時期を、これほど克明に、微に入り細をうがつように描写した作品は他にありません。しかも小説のタイトルにある「黒い眼」とは新島襄の目を指しており、「茶色の目」とは健次郎の初恋の女性の目を指すのであります。徳冨健次郎はまず一八七八年から一八八〇年まで、すなわち十歳のときから十二歳までの二年間を同志社英学校ですごしました。私はこれを彼の第一次同志社時代と呼ぶことにします。それから六年の間を経て、一八八六年から一八八七年に至る一年間を同志社で学びました。これは彼の十八歳から十九歳にかけての一年間です。これが彼の第二次同志社時代です。健次郎は合計三年間にわたって同志社生活を送ったことになります。それは新島襄が同志社英学校の校長であった時期に当たります。したがって、この作品は新島時代の同志社を知るうえで、実に有難い資料だということができます。私自身の興味は、新島襄が一学生の引き起こした恋愛事件に、どのように対処したかをさぐることにあります。 『黒い眼と茶色の目』という作品は従来「告白小説」と考えられてきました。告白というのは、本人が心のなかに思っていること、特に、普通ならば公にせずに隠しておくようなことを、敢えて正直に打ち明けることです。告白小説は、著者が本来ならば隠しておくようなことを含めて、心のなかの全部を洗いざらい述べたもの、という風に理解することができます。何のためにそんなことをするのでしょうか。それはそうすることによって、著者が心の整理をつけ、いわば新しい自分になることを念願しているのです。古い自分を葬り去って、新しい自分になりたいという衝動が、その背後にあります。したがって、これは一種の宗教的な行為であるとさえいうことができます。 ローマ・カトリック教会の信徒は、一年に何度か教会で、神父さんに対して自分の犯した罪を告白することを義務付けられています。カトリック教徒は、神父さんを通して神に自分の犯した罪を告白することにより、神父さんを通して神から罪の赦しを受け、新しい人間となってまた人生を生きていきます。徳冨健次郎もまた、『黒い眼と茶色の目』という告白小説を書くことによって、新しい人間になろうとしたのでした。ドイツの大作家ゲーテはそれを「脱皮」と呼びました。生き物のうちで、蝉とか蛇はその成長段階において古い殻、古い皮を脱ぎ捨てて、次の段階へと移っていきます。人間もまた精神的に脱皮して、新しくなる必要があるのでしょう。徳冨健次郎の場合、なぜそうやって心の整理をする必要性を痛感したのか、その事情についてはあとで述べます。さしあたり今申しておきたいことは、告白小説は正直な告白でなければならない、ということです。つまり告白に嘘が混じるようでは告白になりません。嘘の告白をしていては、新しい人間になることはできません。『黒い眼と茶色の目』が重要であるのは、そして読む者にとって無限に面白いのは、徳冨健次郎がこの作品で、本当に洗いざらい、本当のことを書いているからです。
同志社における健次郎
徳冨健次郎の同志社時代を描いた告白小説、『黒い眼と茶色の目』では、固有名詞は殆どの場合仮の名を与えられていますが、発音の類似性(主人公の徳冨健次郎は得能敬二、新島先生は飯島先生、同志社は協志社)、または反対概念の使用(浮田は沈田、上原は下原、Gaines はロス)、で、誰または何を指しているか、類推ができます。この作品では主人公は敗北者として描かれています。つまり『黒い眼と茶色の目』を書いた徳冨健次郎には敗北者、失敗者ないし罪人としての意識が強いのです。それはなぜでしょうか。この問題に私は答えてみたいのですが、その前に、この小説に同志社での学生生活がどのように描かれているかに触れておきたいと思います。同志社スピリット・ウィークの講演でありますので、徳冨健次郎が在学した頃の同志社のスピリットがどのようなものであったのかを、見ておきたいのです。 徳冨健次郎は一八七八年京都に、兄の徳富猪一郎に連れられて出てきました。当時まだ十歳の子どもでした。新島校長から委嘱されて、健次郎の入学試験を担当したのは最上級生の山崎為徳でした。山崎は熊本バンドの一人であり、秀才揃いの熊本バンドのなかでも第一の秀才と言われました。彼はミルトンのParadise Lost(『楽園喪失』)を暗誦しながら御所を散歩したと伝えられています。山崎は健次郎が一度も読んだことのなかった『万国史略』を読ませ、それについて質問しました。山崎の「眼鏡越しに光る眼と尖々しい肝癪声に胆を」(『黒い眼と茶色の目』岩波文庫版、p. 42. 以下の引用ではページのみ示す)つぶし、「ドギマギして再三躓」(p. 42)きました。山崎は恐らく新島校長に、徳冨健次郎君の学力はさっぱりです、あれでは入学させるわけにいきません、とでも報告したのでしょう。ところがその翌日、郵便配達の持つようなカバンを左の肩にかけた洋服の人が健次郎に声をかけ、ついてきなさい、と言って教室まで連れていき、『日本略史』を取り出して、「これを読んでご覧」と言いました。「其洋服の人の黒い眼の温かい光に気を得て敬二はすらすらと読んだ。此れで入学試験は済みました、勉強なさい、と云はれて敬二は天にも上る心地になった。洋服の人は、校長飯島先生であった。敬二が先生の黒い眼に惚れたのは、此時が初であった」(pp. 42-43)。このように徳冨健次郎は新島の再試験に救われて同志社英学校に入学することができました。私には、この時の新島は、入学試験を重視しない人であった、と思えてなりません。 健次郎を入学試験でおびやかした山崎為徳でしたが、のちには健次郎は山崎とは心安くなり、一緒に何度も石蹴りをして遊んだと述べています。このころのエピソードをもう一つ紹介しましょう。次の引用文は、名詞の前に長い長い形容語句があるため、決してよい文章とは言いがたいものです。「今彰光館[彰栄館]の鐘が全校の心臓の如く時々刻々を拍つあたりでは、生茂る八重葎の中からステッキになりさうなのを択ると謂って、東京麻布新堀町八番地父上様と書いて郵便に出して、それでも裏の須田と云ふ姓で名高い人だけに無事に届いたと云ふ一つ話をこさへた敬二の同級で二つ年上の後頭部が背と垂直になって居るので紫口鯔[しくち]と綽名のある少年と敬二と喧嘩をはじめ、組み敷かれた敬二が下で口惜しがって泣けば、組み伏せた須田も上で泣き、草深い中だけにとめ手がないのでくたびれるまで泣いて仲直りした記憶もあった」(p. 43)。この須田君は実は津田元親といって、新島襄の若いころの友人だった東京の有名な津田仙という人の息子なのです。津田仙の娘が津田梅子です。このエピソードでは、二人の少年が喧嘩した原因はよくわかりません。草ぼうぼうの同志社英学校キャンパスでの喧嘩です。草むらの中での喧嘩ですから、止める者がない。組打ちして勝った方も負けた方も泣き出す。泣きくたびれて仲直りするとは、まことに牧歌的な、呑気な話です。 ただ今のエピソードは徳冨健次郎が十歳から十二歳までの、つまり第一次同志社時代のときに経験した話でした。彼の第二次同志社時代は十八歳から十九歳にかけてでありますから、現在の大学生でいえばちょうど一年生の年齢に当たります。彼が初恋を経験するのはこの時期でした。相手の女性、山本久栄は山本覚馬の娘でした。同志社は新島襄と、この山本覚馬と、宣教師ジェローム・ディーン・デイヴィスの三人によって一八七五年に京都に設立された学校なのです。設立の中心人物は新島でしたが、地元である京都において、よそ者で、しかもクリスチャンである新島襄を受け入れ、学校を建てるための土地の世話をし、監督官庁だった京都府にわたりをつけたのは、この山本覚馬だったのです。そして、新島、山本を、アメリカン・ボードという米国の宣教団体が後援したからこそ、同志社英学校の看板を掲げることができたわけで、デイヴィス宣教師の強力な支援なしには、同志社は新島と山本だけではとても学校としてのスタートを切ることはできなかったのであります。 このような同志社の重鎮である山本覚馬は、明治維新ののち、特に首都が京都から東京に移転してから後の京都の復興のために、さまざまな計画を立て、京都府の府議会ができたときに、初代の府議会議長を務めました。しかし若い時に視力を失い、視覚障害者であり、足も悪くて歩行が不自由でしたから、日常生活の全般にわたり人びとの助けが必要でした。山本覚馬は会津若松の出身で、会津時代に結婚して「みね」という娘があり、みねは恐らく新島の世話で、横井時雄と結婚していました。横井時雄は熊本藩が生んだ幕末の思想家として著名な横井小楠の息子でした。横井時雄の母津世子の姉、久子が、徳富猪一郎、健次郎兄弟を生んだ母に当たります。したがって、横井時雄は徳富兄弟と従兄弟同士なのです。しかし単なるイトコ同士ではありません。徳富兄弟の父、徳富一敬は横井小楠に師事していましたから、その息子である時雄を、甥ではあってもあくまで、横井小楠先生のご子息として扱い、決しておろそかにすることがありませんでした。 横井時雄は同志社を一八七九年に卒業した第一回生の一人でした。この組には先ほど触れた山崎為徳を始め、海老名弾正、小崎弘道、宮川経輝、金森通倫、森田久万人、浮田和民、下村孝太郎などがいます。以上挙げた名前のうち、小崎弘道、横井時雄、下村孝太郎、海老名弾正の四人はのちに同志社の社長、総長を務め、同志社の発展に貢献した人びとです。
健次郎と山本久栄
さて、そのような背景から徳冨健次郎の第二次同志社時代を考えてみましょう。横井時雄は新島八重夫人の姪にあたる、山本覚馬の長女みねと結婚していますから、新島とは親戚です。徳冨健次郎は横井時雄の従弟ですから、新島襄の遠縁にあたることがわかります。健次郎の恋愛の相手は山本覚馬の後妻、時栄が産んだ娘、久栄でありました。久栄は横井みね夫人の腹違いの妹ということになります。健次郎は横井時雄が今治教会の牧師として、たいへんな勢いで伝道活動にあたっていたころ、水俣から出て、今治の横井牧師に預けられていました。今治時代の健次郎は横井牧師を手伝って、伝道に励みました。横井はそのうちに新島襄から招かれて、同志社で教えることになり、一家を挙げて京都に移りました。健次郎もまた横井一家の京都移転と前後して京都に移り、同志社英学校の三年生に入って、二度目の同志社生活を始めたのでした。山本久栄は姉の家である横井家を手伝いにきたりして、健次郎と自然に顔を合わせるようになりました。このようにして健次郎と久栄は出会ったのであります。久栄は同志社女学校の生徒でした。 健次郎が山本久栄に関して受けた最初の印象は、なんという礼儀知らずの、はすっぱな女の子だろう、というものでした。しかし何度も顔を合わせるうちに、二人はだんだん親密になっていきました。しかし二人が将来を言い交わすようになるまでには、多少の紆余曲折があったことも事実です。熊本から徳富家の親戚の一人で、竹崎土平という青年が同志社の予備校に入学し、横井家に厄介になるようになりました。この竹崎土平君もやがて山本久栄に惹かれ始めました。彼は正面から堂々とあなたが好きだ、と伝えたのでしたが、彼女はいい顔をしません。その理由を問い詰めると、私は健次郎さんを愛しているから、ということを打ち明けました。土平君はそのことを健次郎にすぐに伝えにきたのです。そのようにして健次郎は土平に対する勝利感を味わうとともに、久栄に急速に惹かれていったのは当然のことです。健次郎と久栄は遂に二人の間で、将来結婚するという約束を交わしました。 当時の若い青年男女の交際は、現在とは非常に異なります。彼らには携帯電話という便利なものはありませんでしたし、e-mail でひそかにメールをやりとりすることもありませんでした。男女間の手紙は「ふみ」と呼ばれ、このふみを交換することがせいぜいのところでした。若い男女が人前でおおっぴらに交際することのできない時代でした。当時の同志社女学校は、生徒に男性との交際を禁じていました。 健次郎と久栄の親密な関係に好意をもっていたのは、久栄の父の山本覚馬と、覚馬の母、つまり久栄の祖母と、この二人だけでした。横井時雄は義理の妹である久栄と、健次郎の関係には否定的でした。久栄は健次郎との結婚の約束を自分の胸のうちにしまっておくことができない女性でしたから、そのことは洩れてしまい、横井時雄も新島先生も怒っているということをイトコの竹崎土平が健次郎のところへ知らせにきました。竹崎土平はおせっかいにも、結婚約束を反故にするよう奨めました。健次郎は久栄を美人とも、貞淑な女性であるとも、いな、純潔の処女であるとさえも思っていませんでした。しかし一つだけ疑い得ないことがありました。それは久栄が自分を愛してくれていることと、自分も久栄を愛しているということでした。ですから、土平がしつこく奨めるからといって、そのような破約の決心をすることができませんでした。すると土平はわざわざ自分で女学校の寮まで出かけて行き、勝手に健次郎に代わって破約を宣言してしまいました。 これには健次郎も怒りました。婚約は個人的なことなのだから、断るのであれば自分で責任を持って断らなくてはなりません。そこで次の土曜日、健次郎は久栄が南禅寺にくるようにしむけて、土平とともに先に南禅寺に行きました。ところがこのデートのことを聞きつけた横井時雄は、自分でも人力車に乗って南禅寺にかけつけ、健次郎を厳しくたしなめました。健次郎は翌日、時雄から厳しい反省を迫る手紙を受け取りました。健次郎は無条件降伏するような返事を書かざるを得ませんでした。横井時雄はいわば徳富家から健次郎の後見人を頼まれていた形ですから、このことを健次郎の兄猪一郎と父に報告しました。横井時雄としても、妻の父山本覚馬が健次郎に好意的であることを知っていましたから、もしも健次郎が本気で久栄を愛しており、学校を卒業してからもなお彼の愛情が変わらないのであれば、山本家に婿入りしてもらうことを、やむを得ないことと見ていたようです。しかし横井は明らかに、自分の義理の妹を、健次郎に推薦できる女性とは見做していませんでした。しかも新島もまた横井と同意見だったのです。新島は健次郎と久栄の成行きをひそかに心配していました。一八八七年一一月六日付で、新島は徳富猪一郎宛にこのような手紙を書いています。
過般拝眉の際ご委託これ有り候ご令弟の一条につき、小生過日拙宅に御目に懸かり候節、意外にも令弟には山本氏の嬢と結婚破談までは決行成され候由なるに、何分この地に止まりては双方のためにならず、実に云うべからざる情実ありて、止むを得ず東京に趣きたき旨仰せられ候間、小生飽くまでもこれに反対し、男子の前途有為の用意中、一少女のために動かされ、遂に敗談後も断念しきれず、右ようの拙策を工風さるるとは思いも寄らざる事なり。 また「君には如何なる顔をもって君の尊大人、尊兄方にご面会をなし得べきぞ。右ようなる弱き卑屈なる心を出すならば、君は生涯外物のために制せられ、自己の決断力をもって世の中を大踏歩して通行するものにあらず、如何なればかくのごとき卑屈策を工風し出されたるぞ」と、無遠慮にもご忠告申し候ところ、まず熟慮の上返答すべしと仰せられ、拙宅を御去り成らせられ候。その前より脚気病にて下宿成され、何人かの勧めにより清滝村に暫時加養のため御越し成され、近々ご帰京に相成り申し候。 この書ここまで記し来たり候節、幸いに健次郎君ご来訪これ有り(これは今夕御招き申し候による)、脚気は大分宜しき由。また先日脳中に画き出した空中の楼閣は、最早全く消滅し去り、再び弊校に御帰り成され、これよりご勉強成さるべき旨仰せられ候につき、ひとまず安心仕り候。・・・今夕は決して小人と交際すべからず、また小器と成るべからず、小成に安んずべからず、是非前途遠大の策を立てるべき旨、懇々御勧め置き申し候。 (『新島襄の手紙』岩波文庫、pp. 220-21)
この手紙を読むと、新島が徳冨健次郎のためにいかに気を遣っていたかがよくわかります。いったん破談と決めたのであれば、それ以上ぐじぐじと過去に囚われないで前進することを新島は強く奨め、この手紙の段階では健次郎が久栄の幻をすっかり消滅させたと言うので、新島は喜んでいます。
健次郎と新島襄
横井時雄から健次郎の状況に関する報告を受けて、久栄を諦めるようにと最も強力に主張したのは、兄の徳富猪一郎と、東京に嫁いでいた姉の久子でした。彼らの父が尊敬する縁者である横井時雄の推薦と祝福を得られないような相手とは、交際を絶つべきだということを、その年の夏休みに東京に帰省中、健次郎は兄と姉から強く言われ、とうとう久栄を諦めるという約束をさせられたのでした。 京都に戻った健次郎は、婚約破棄を久栄に言い出しかねて、しばらくずるずるとひきのばしながら、なお親しく交際を続けていました。とうとうある日決断して、婚約を解消するという手紙を書きました。久栄にとっては寝耳に水でした。久栄は、当分の間会わないというのであればわかるが、永遠に関係を断ち切るということは受容れられないと答えました。健次郎は久栄を裏切ったことで苦しみました。苦しんだあげく、やっぱり久栄の顔を見たい、声を聞きたいという思いにかられて、山本家のある河原町三条あたりの旅館に、養生かたがた泊ってみたりしました。すると、同志社英学校の先生である金森通倫がやってきて、健次郎が無届で外泊しているのは校則違反だから、早く手続をとるように、と申し渡し、近頃君の信仰の状態はどうか、と問いました。健次郎は英語で、「Distracted condition です」と正直に答えています。 この頃健次郎は脚気に苦しんでいましたから、学校に病気療養届けを出したうえで、洛西の清滝の「ますや」という旅館に行って静養することにしました。しかし日がたつにつれてお金が欠乏してきます。靴屋のおじさんが、今の左京区田中から清滝まで三里も歩いて、六十銭の靴代の請求にきたのには、ほとほと弱りました。誰から借金したものか。健次郎が最後に思いついたのは、新島先生に借金する、という考えでした。健次郎は清滝からてくてく歩いて、寺町通の新島先生を訪問しました。新島は先ず脚気の具合を尋ねました。健次郎は、脚気は大分よい方なので、すぐに清滝を引揚げて、同志社に帰りたいと思っています、と答えました。新島は、机の引き出しから一通の手紙を取り出して、これは東京の兄上から来た手紙だが、兄上も父上もずいぶん君のことを心配しておられますよ、と言いました。新島はあの黒い眼でじっと健次郎を見ながら、一語一語に力をこめつつ、このように言いました。引用します。
「それに、親戚の者ですが、彼寿代[久栄]と云ふ女、よくない女です。今勉強の最中に、妻をきめるはまだ早いです。書中有女顔如玉で、好い妻が欲しいなら勉強すべしです。人間第一に重んず可きものは、Character です。如何に文章がうまくても、Character が確り立たなくては、柩を買ふて玉を還すが如しです。軽薄才子や利口者では何にもならない。学校でも其様な連中が色々云ふでしやうが、構はない、云はして置くです。学課の方も随分おくれたでしやうが、何卒一つしっかり奮発して戴きたい」(pp. 214-15)
健次郎は涙ながらに新島先生の温かい、強い言葉を聞いていました。その言葉が酒のように全身に行き渡ると、むらむらと元気が出てきました。先生に玄関まで送られて、足も軽々と門を出たのですが、借金のことを切出すことを忘れていました。いや、忘れたわけではありませんでしたが、金のことなどどうでもよい、という気になっていたのです。ようやく彼は、同志社で勉強している義兄の大久保真次郎に借金することを思いつき、首尾よく十円の借金をして、清滝に帰ることができました。 折角義兄から借りた十円も、清滝の旅館代を精算するともういくらも残っていません。彼は同志社の寮に帰り、これから先どうしたものかと考えました。彼は久しぶりに神に祈りを捧げました。その夜、彼は一種の霊感を受けたかのようでした。彼は突貫すべきだと感じたのです。同志社から、京都から脱出することです。彼は自分の持ち物を全部売り払い、そして方々の借金を返しました。最後にどうしても山本久栄に会って、別れの言葉を伝えなくては京都を出ることができないと思い、女学校の寮にいる久栄宛に手紙を書きましたが、久栄からは何の返事もありません。とうとう健次郎は女学校の寮まで乗り込んで行き、久栄を呼び出してもらいました。そこへ急に新島夫人がやってきました。そして、あなたを久栄にここで会わすわけにいかない、自宅に来てくだされば会わせます、私はこれから久栄を連れて帰りますから、と言いました。健次郎は急いで新島邸に向いました。応接室で待っていると、しばらくして、久栄が新島夫妻に挟まれるようにして入ってきました。久栄は横を向いたきり、健次郎の方を見向きもしません。健次郎は彼女に躍りかかりたいほどの憎悪を感じました。新島は静かに、女学校に来るあなたの手紙はすべてこちらにまわすことになっていた、と告げました。久栄に何か話があるようだから、ここで話しなさい、と新島が言いました。健次郎は、この状態でお話しできないわけではありませんが、お二人には居ていただきなくない、と言いますと、新島「では、お逢はせ申すことは成りませぬ」。健次郎「では逢はなくもよろしい」。新島「ぢや、お帰り下さい」。健次郎「帰ります」と言う言葉のやりとりの末、健次郎は玄関に飛び降り、急いで靴をはきました。足もとが明るくなったので、ふと見上げると、ランプを手にして、新島先生が立っていました。先生の黒い眼がランプの光に湿って輝いていました。健次郎はこうして、別れの挨拶もせず新島邸を出ていきました。同志社を出る前に新島宛のこのような手紙を書いています。
不肖の小生今日に至るまで先生のご眷愛を忝うし、幾度か過失に陥り、幾度か先生の胸襟を痛ましめ奉りたるに拘らず、永く忍びて訓育し玉いし鴻恩は、小生天涯地角にありて身、辛苦痛酸の中に在るも、決して忘却し得ざるところにこれ有り候えども、勢ここに到りてまた止む能わず。見す見す下策を取るは実に小生が深く自ら慙愧悲痛に堪えざるところにござ候。 既に京都に止まる能わず、また東京に帰りて父兄に対するの面目なき次第にこれ有り候えば、西去の一方法ただ小生に残る事と存じ候。既に良心の指示に背き、先生の鴻恩を抛ち、良朋の勧告を退けて、自ら欲するところをなす事なれば、事の成否を問わず、再び先生の厳顔慈容を拝する能わざる事と存じ候。 先生の御身は実に邦家の命運に関す。願わくは自愛して永く後進の望みに添い、永く邦家の柱礎となり玉わん事を。 徳 冨 乾 (『新島襄の手紙』岩波文庫、pp. 228-29)
新島はこの手紙を同封して健次郎の姉、湯浅初子宛に、一八八七年一二月一七日付で次のような手紙を書きました。新島としても万策尽きたのでした。
一昨々日はご令弟のご挙動ご通知申し上げ候て、策既に尽きたりと存じ居り候えども、なお挽回もあるべけれと存じ、金森、大久保の周旋、東行の得策、また他に行くも別に見込みなく、これまでの失敗は大分校中一同の軽蔑するところにて、恥辱と思わるるも、小恥を忍んで大恥を来たらすは決して不得策なりと縷々御勧め申さしめたれども、如何せん本日は別紙のご書面、何か西行に決せられたる由。さればとて西行とはいずれの辺りなるかご自身にも未だ明白にご承知なき様子。小生も先日来不快にて、今に奔走等差し止め居る次第。 何分当地に止まるは、恋々の情断念しきれざるところあるか。東行するも大人大兄に面目なく、止むを得ざるの策の下拙なるを知りつつ取られて西行と決せられしならん。何分別紙の小生等並びに良友の勧告を一切御聞き入れなされず、良心に背きながらも西行に決せられし由。小生には何とも大人大兄等に対し、申し訳なく汗顔の至りなるも、今更束縛法の外これを止むるに由なく、大いに困却仕り候。右、ご通知のため。早々以上。 (『新島襄の手紙』岩波文庫、pp. 227-28)
その後のこと
山本久栄はそれから六年後の一八九三年に病気で亡くなり、若王子墓地に葬られました。その翌年に徳冨健次郎は原田愛子と結婚しました。しかし結婚後においても、死んだ山本久栄は彼の胸中から消えず、彼はその亡霊を何とかして消そうと努めました。そのため、彼は一度、そしてもう一度と、二度にわたって、二人の関係を物語として書き綴ってみましたが、満足できず、原稿は全部破り捨てました。そして三度目に書き上げた原稿が『黒い眼と茶色の目』だったのです。彼は原稿の清書を妻の愛子にさせました。愛子にとって、これは拷問にも等しい業であったと思います。しかし、この小説を完成することを通してようやく、徳冨健次郎は山本久栄の亡霊を鎮めることができたのです。この小説を健次郎は妻、愛子に捧げるにあたり、このような驚くべき献呈の言葉を書いています。引用します。
「吾妻よ。二十一年前結婚の折おまへに贈らねばならなかったのを、わしが不徹底の含羞から今日まで出しおくれたのが此書だ。わしはおまへに此生でめぐり合ふ前に、おまへを尋ねてさんざ盲動をした。此もおまへと思ひ違へた空しい影にうろたへて流した血と涙と汗の痕だ。わし達は最早此様なものも昔話になし得る幸福な身の上だ。形に添ふ可き影ならば、此書をおまへでなくて誰に贈らうぞ。此は当然おまへのものだ。 著者」
健次郎としては、妻愛子との本当の意味での人間関係を構築するためには、久栄の亡霊を鎮めることがどうしても必要でした。『黒い眼と茶色の目』の執筆は、亡霊を鎮めるための儀式でした。 学生の恋愛に対して新島がどのような見方をしていたのかは、正確には分かりませんが、一つはっきりしているのは、新島は、愛し合っている男女は神の祝福のもとに、結婚に向って進むことが当然であり、それを自分は喜んで支援するといったリベラルな立場ではありませんでした。新島は義理の姪である山本久栄を、温厚で貞淑で、信仰的にもしっかりした女性と見ていなかったことは確実です。それが「よくない女」という言葉に反映しています。新島の頭の中には彼がアメリカ時代に親しく接したハーディー夫人、シーリー夫人、あるいはミス・ヒドンのような女性、すなわち貞淑で、優しく、信仰に篤く、しかも主体性を持つ女性という、一種の理想像が形成されていたに相違ありません。久栄がそのようなタイプの人でなかったことは明白です。 久栄の実の叔母にあたる女性(小説のなかで「黒田のおくらさん」と呼ばれている人)のごときは、久栄のことを「年齢がいかんかて凄い女だっせ。次平[土平]さんをまるめた手際なンか、聞いててそりゃびっくらする程巧いもんだっせ」(p. 114)とまで述べています。彼女には自分の孫娘の「勝枝」を健次郎に娶わせたい下心がありましたが、そのことを考慮に入れてもなお、この評価には特に誇張はないでしょう。それを裏付けるのは、久栄の死の知らせが東京に届いたときに、横井時雄が義妹について徳富猪一郎に述べたきつい表現です。「爆裂弾を抱いて走る様なもンで、恐ろしい女」(p. 257)だった、というのです。 しかし、そういう「よくない女」、「凄い女」、「恐ろしい女」も、同志社女学校の生徒の一人だったのですから、新島は教育の責任者としてほったらかしておくわけにはいかなかった筈です。健次郎と久栄の結ばれることを認めなかった新島ではありましたが、久栄の教育には配慮していたふしがあります。当時女子部にいた宣教師フローレンス・ホワイト(Florence White)女史に、新島は久栄の教育を期待していました。英語だけでなく、クリスチャン女性としての訓育を委嘱していたようで、ホワイト女史から新島に宛てた一八八八年十一月二十九日付の手紙(これは健次郎が同志社を去ってちょうど一年経った時期です)がそのことを裏書きしています。十一月二十五日とおもわれる日曜日に、教会で久栄がホワイト女史のために日本語の説教を通訳してくれたことを、感謝をこめてしたため、久栄とのつきあいをこれからもっと深めていきたい、と述べています。それが成功したかどうか、現在のところそれを確かめる手段はありませんが、新島の久栄に対する気遣いはこの手紙から伝わってきます。 健次郎に関して新島自身は、大久保真次郎に向って「青年一人度すことが出来ぬ」(p.244)と言って涙を流しました。彼は多分もう一人の若者、山本久栄をも訓育できなかったのです。このことは、人を教育することがいかに至難の業であるかを示します。にも関わらず、『黒い眼と茶色の目』は、新島の温かい人格を徳冨健次郎に、生涯にわたって忘れ難いものとしてきたことを雄弁に示す記念碑であったと、私は確信いたします。
二〇〇八年十一月三日 同志社スピリット・ウィーク「講演」記録
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