奨励

「脱国の理由書」を読む
―なぜハーディーは心を動かされたのか?

奨励 村山 盛葦〔むらやま・もりよし〕
奨励者紹介 同志社大学神学部准教授
研究テーマ 新約聖書学・初期キリスト教

はじめに

 毎年春と秋に、同志社を知る、同志社について学ぶ一週間を同志社スピリット・ウィークとして、キリスト教文化センターが主催しております。京田辺校地と今出川校地において行っております。本日、このクラスの「建学の精神とキリスト教」では、新島の「脱国の理由書」を皆さんと読み、新島が、どのような思いでアメリカにやってきたのか、「理由書」を読んだハーディーは、なぜ新島を養子として受け入れたのか、ということを考えていきたいと思います。

ボストン入港

 新島は、受け入れ先がないままにアメリカにやってきました。受け入れ先が決まるまで悶々とした日々を約三ヵ月間、送りました。船の上での生活です。そのようななかで、原書の『ロビンソン・クルーソー』を読み、祈りについて、キリスト教信仰について理解を深めていきました。そのようなある日、ワイルド・ローバー号のテイラー船長が、船主であるハーディー夫妻を連れてきました。ハーディー夫妻は、テイラー船長から新島のことを聞き、本人に会ってみようとやってきたのです。しかし、残念なことに新島の英語は、さっぱり通じませんでした。身振り、手振り、片言英語で通用していたのは船の上だけの話だったのです。船員たちには通じていた片言の英語が、ボストンの上流階級の紳士淑女にはほとんど通じなかったわけです。面談は不調に終わりました。しかし、ハーディーは別のチャンスを新島に与えてくれます。新島が日本を密出国した動機、そしてアメリカで何をしたいのかを文章にさせます。新島は船乗りの会館に宿泊し、必死の思いで、「理由書」を書き、それをハーディー夫妻に提出しました。
 新島は、当初蘭学を勉強していましたが、途中から英語を学ぶことにしました。一八六三年から学び始めたので、ボストンに着いた一八六五年は、まだ二年足らずしか過ぎていません。皆さんが英語を中学から学び始めたとしたら、中学二年生の状態です。そこで自分の思いを英語で表現する、英語を読むのではなく、自分の意見を英語で表現する。これはかなり難しいことだと思います。ハーディー夫妻との面談で、バーバル・コミュニケーション、言語を通しての意思疎通は失敗したわけですが、手真似、身振りなど、ノンバーバル・コミュニケーションを通して、新島の誠実さ、人柄はハーディーに伝わったと思います。しかしハーディーには、この日本の青年が、何を言っているのかわからなかった。しかし、口頭での意思の疎通がなかったとしても、無碍に断るところまでいかなかった。おそらく、ノンバーバル・コミュニケーションを通して伝わった新島の人柄の良さや、一年間、船旅を共にしたテイラー船長の強い推薦は、ハーディーの判断に強い影響を与えたと思います。

脱国の理由書

 新島は、書き言葉でコミュニケーションをとるチャンスを与えられたわけです。アーサー・シャバーン・ハーディーが編集したLife and Letters of Joseph Hardy Neesima(一八九一年)に「理由書」は所収されています。アーサーは、新島を養子として受け入れてくれたハーディーの三男にあたる人物です。その訳が、『現代語で読む新島襄』(『現代語で読む新島襄』編集委員会編 丸善)に収められています。

 私はなぜ日本を脱国したのか (脱国の理由書)一八六五年十月

 私はある藩主〔板倉勝明〕の江戸藩邸で生まれた。父〔新島民治〕は藩邸内で書道の師匠と祐筆をつとめていた。祖父も藩主に仕える身で、全体〔足軽など〕を取締る執事だった。私は六歳から日本の古典と漢籍とを学び始めたが、十一歳の時、それまでの考えを一変させて剣道と馬術を習い始めた。十六歳の時、漢籍を学びたい気持が高まったので、剣道などはやめてしまった。
 けれども藩主は私を日誌記録係に抜ばってき擢した。しかし、それは私がやりたくなかった仕事だった。私は一日おきに藩邸の執務室に通わなければならなかった。そのうえ自宅で父に代わって男の子や女の子らに書道を教えなければならなかった。そのため漢学塾に通って漢文を勉強することはできなかった。けれども本は毎晩自宅で読んでいた。
 ある日、友人がアメリカ合衆国の地図書〔『連邦志略』〕を貸してくれた。それはあるアメリカの宣教師〔E・C・ブリッジマン〕が漢文で書いたもので、私はそれを何度も読んだ。その本で大統領の選出、授業料無料の公立学校や救貧院、少年更生施設、工場などを建てることを知って、脳みそが頭からとろけ出そうになるほど驚嘆した。

 新島の面白い表現です。頭から脳味噌がとろけ出そうになるほどびっくりしたということです

 そこで私は、わが国の将軍もアメリカの大統領のようでなければならないと思い、こうつぶやいた。
 「ああ日本の将軍よ、なぜあなたはわれわれを犬や豚のように抑圧するのか。われわれは日本の人民だ。かりにもわれわれを支配するのならば、あなたはわれわれをわが子のように愛さなくてはならない」と。

 民主主義という点では全くの後進国であった日本に対して、日本の将軍は日本の国民を犬や豚のように扱っていると、新島が憤りを覚えていることがわかります。

 その時以来私はアメリカのことを学びたいと思うようになった。しかし、残念なことにそれを教えてくれる教師はひとりもいなかった。私はオランダ語を勉強したくはなかったけれども、私の国ではオランダ語を読める人が多かったから、それを勉強せざるを得なかった。そこで私は蘭学を学ぶために教師の家に一日おきに通った。
 ある日、私は藩邸の執務室に出ていたが、記録することは何もなかった。そこで執務室を抜け出し、蘭学教師の家に行った。やがて藩主が私に会いに執務室に来られた。ところが誰もそこにいなかったので、藩主は私が戻ってくるまで待っておられた。私に会うなり藩主は私を殴りつけた。「なぜ執務室を抜け出したのか。ここから逃げ出すとはもってのほかだ」。
 十日後に私は再び逃げ出したが、藩主には気づかれなかった。しかし、残念にもその次に逃げ出した時には見つかってしまい、殴られた。「おまえはなぜここから逃げたのか」と尋ねられたので、私は答えた。
 「外国の知識が学びたかったのです。外国のことをできるだけ早く理解したいのです。ですから執務室に詰めて、お殿さまが決められた規則を守らなくてはならないことは承知しておりますが、私の心は勉強のためにすでに先生の所に行っております。それゆえ私の体もまたそこへ行かざるを得なかったのです」と。
 すると藩主は非常にやさしくこう言われた。「おまえは習字が上手だからそれで生計を立てていける。二度とここから逃げ出さないならば、俸禄を増やしてやってもいい。どうしておまえは外国の知識などにあこがれるんだ。それは道を誤るもとだ」と。
 私は言った。「どうしてそれが道を誤るもとになるのでしょうか。誰でも何らかの知識を持つべきだと思います。知識を全く持たない人は犬や豚にひとしいと思います」と。それを聞いて藩主は高笑いをして「おまえはしっかりしている」と言われた。この件では藩主のほかにも祖父、両親、姉たち、友だち、隣人たちが、私を殴ったり、嘲笑したりした。しかし、私は彼らのことを全く気にせずに自分の考えを堅持した。

周りからの迫害、無理解があるにもかかわらず、一生懸命勉強したということが、ここで綴られています。

 二、三ヵ月後、執務室での仕事が増えたので抜け出せなくなった。ああ、これが原因で私はあれこれと思い煩い、病気にもなった。誰にも会う気がせず、遊びに出たい気持も起こらなかった。ひたすら静かな部屋にこもっていたかった。ひどい病気だと分かったので、薬をもらいに医者の所へ行った。医者は念入りに私の病気を診察した後でこう言った。「君の病気は心が原因だ。高ぶった気持をまずすっかり静めるようにしなければいけない。身体の健康のために散歩をする必要がある。散歩のほうが薬をたくさん飲むよりもはるかに効き目がある」と。
 藩主は病気を治すために時間をたっぷりくださり、遊ぶために父も金をいくらかくれました。しかし、私はオランダ語を学ぶために毎日教師の家に通った。長時間を費してオランダ語の文法書を読み終えてから自然科学の小冊子にとりかかった。この本は大変面白かったので、医者のくれた薬よりもずっとよく私の病気に効いたと思う。
 二、三ヵ月後に病気が良くなると、藩主は再び私を抜擢して日誌記録の仕事を命じられた。藩主の命令に従って、私は毎日執務室に詰めていなければならなかった。ああ、もうオランダ語の勉強のためにそこを抜け出すことができない。私は仕方なく自宅で夜間に時間をかけて本を読んだ。そして蘭和辞典をたよりに例の自然科学の本を読み終えた。けれども悲しいことに夜の勉強のために目を傷めたので、またもや勉強を中断せざるを得なくなった。
 十週間たつと目の病気が完全に回復したので、再びその本を読み始めた。けれども計算式でわからないところがあったので、算術を学びたいと思った。しかし、そのための時間は全くなかったからある日藩主に「勉学のためにもっと時間をください」とお願いした。そこで藩主は週三回私が執務室から抜け出すことを許可してくださったが、私にはまだ十分とはいえなかった。私はある算術の塾に通って足し算、引き算、掛け算、割り算、分数、利息算などを修得した。その後、例の自然科学の本を再読すると計算式の部分がよく理解できた。

 新島は理系の人だったのです。数学に興味をもって、それをもとに次の応用的な学問に進んでいったわけです。

 ある日、私は海が見たいと思って江戸湾に行った。そこで私はびっくりするほど大きなオランダ軍艦を見た。それは私には城か砲台のように見えた。この船は敵と戦えば強いだろう、とも思った。この船を眺めていると、ある思いが頭にひらめいた。私たちは海軍を作らなくてはならぬ、との思いである。なぜなら、わが国は周囲を海で囲まれており、もし外国から攻撃を受ければ、海上で戦わなくてはならないからだ。
 しかし、別の思いも浮かんできた。外国人が貿易を始めてから諸物価があがり、わが国は以前よりも貧しくなった。日本人は外国人と貿易をする方法を知らないから、私たちは外国に出かけて貿易の仕方を覚え、外国に関する知識を学ばなくてはならない、との思いである。

 これからの日本をどうするかというときに、軍事力、そして経済力が必要であるということを新島は指摘しています。今、坂本龍馬のテレビドラマが放送されていますが、新島の指摘は、龍馬の発想に似ています。軍事だけではなく、商業、経済を重視している。坂本龍馬は日本で初の総合商社、亀山社中をつくりました。一八六五年のことです。それが発展して、一八六七年に海援隊という私設海軍兼貿易会社ができて、一八六五年から一八六八年まで存続していきます。龍馬が六七年に暗殺され、それ以降は活動が萎びていくわけですが、新島がボストンに入港したのは一八六五年です。ちょうどその時代です。新島襄と坂本龍馬は同時代を生きていた。そのような血気盛んな青年男児が、これからの日本を憂えていたのです。新島自身も、その一人であったということです。

 ところが国法は私の思いを全く無視したので、私はこう叫んだ。「幕府はなぜ私の思いを無視するのか。なぜわれわれを自由にしてくれないのか。なぜわれわれを籠の鳥か袋のネズミのようにしておくのか。そうだ、われわれはそんな野蛮な幕府は倒さなくてはならない。アメリカ合衆国のように〔国民が直接選挙で〕大統領を選ばなくてはならない」と。しかし悲しいかな、そのようなことは私の力のおよばないことだった。

民主主義による倒幕、軍事、武力による倒幕ではなく、民主主義による社会の変革がここで言われています。

 その時以来、私は幕府の軍艦教授所〔軍艦操練所〕に週三回通って航海術を学んだ。何ヵ月もかけて、代数学や幾何学が多少分かるようになり、航海日誌のつけ方や太陽の高度の計り方、緯度の測り方なども修得した。けれども悲しいことに夜間の勉強のせいでまたもや目を悪くし、一年半ばかりというもの、全く勉強ができなくなった。こんなことは人生に二度と起きてほしくない。目が良くなると、藩邸の執務室にまた詰めざるを得なくなった。
 江戸はそのころ非常に暑くて、病人が多く出た。日中、太陽がじりじりと照りつけたある日、夕方に大雨が降った。その時私は寒気がしてぞくぞくしてきた。翌朝には頭痛が始まり、体内で火が燃えているかのように身体がほてってきた。何も食べられず、冷たい水を飲むだけだった。二日後には麻疹(はしか)が体じゅうに出てきた。麻疹がなおると目が悪くなり出したので、ぶらぶらと過ごす時間が多くなった。

 病弱な新島、持病としてリウマチをもっていたわけですが、体が弱い状態の新島が目に浮かびます。そういうなかで健気に努力している姿であります。

 ある日友人を訪ねると、彼の書斎で聖書を抜粋した小冊子を見つけた。それはあるアメリカの宣教師が漢文で書いたもので、聖書の中のもっとも重要な出来事だけが記してあった。私はそれを彼から借り、夜に読んでみた。なぜなら聖書を読んでいることが知れると、幕府は私の家族全員を磔(はりつけ)にするので、私は野蛮な国のおきてを恐れていたからだ。

 キリシタン禁令の時代でしたから、聖書を読むことは公にすることはできなかったのです。

 私はまず神のことが理解できた。すなわち神は天と地を分けたうえ、光を始めとして草木や鳥獣、魚などを〔次々と〕地上に創造された。神はご自身の姿に似た形に男を創り、そして彼の脇腹の骨を切り取って女を創られた。神は宇宙のすべてを創造した後で休まれた。その日を私たちは日曜日または安息日と呼ばねばならない。
 次に私はイエス・キリストが聖霊のみ子であること、その方は全世界の罪のために十字架につけられたこと、それゆえ私たちはその方を私たちの救い主と呼ばなくてはならないことを理解した。そこで私はその本を置き、あたりを見まわしてからこう言った。「誰が私を創ったのか。両親か。いや、神だ。私の机を作ったのは誰か。大工か。いや、神は地上に木を育てられた。神は大工に私の机を作らせられたが、その机は現実にどこかの木からできたものだ。そうであるなら私は神に感謝し、神を信じ、神に対して正直にならなくてはならない」と。

 これは創造信仰です。神がこの世をつくった。創造神に対する信仰です。人間もこの世界もすべて被造物であるという考え方です。キリスト教、ユダヤ教の、根本的な思想であります。草木と安息日の話、旧約聖書の創世記に出てくる物語であります。

 この時から私の心は英語の聖書を読みたいという思いに満たされたので、箱館に行って、イギリス人かアメリカ人の聖書の教師を見つけようと決意した。そこで藩主と両親に対して箱館に行かせてほしいとお願いした。しかし、彼らは許してくれず、私の願いに大変驚いた。彼らは私をこんこんと諭(さと)したが、私の固い決意は変わらなかった。私は自分の願いを持ち続け、神に向かって、「どうかお願いですから志を達成させてください」とひたすら祈っていた。
 それから私はある日本人の教師から英語を習い始めた。ある日、江戸の街中を歩いていると、私の知人で私を可愛がってくれていた洋式帆船〔快風丸〕の船長〔船員の加納格太郎〕に突然出くわした。「船はいつ出るのですか」と聞くと、「三日以内に箱館に向けて出帆する」とのことだった。「連れて行ってもらえますか。お願いですから行かせてください」と言ったところ、「連れて行ってもいいが、君のお殿さまとご両親がお許しにならないだろう。まずそちらに頼むことだ」と彼は答えた。
 二日後、私はいくらかの金と少しばかりの衣服、それにわずかな書物とをたずさえて家を出た。もしこの金がなくなったらどうやって衣食をまかなうのかを考えることもなく、ひたすらこの身を神のみ手にゆだねた。

 函館留学の経緯のところです。新島の信仰がすでにここに見出されます。

 翌朝私は箱館行きの洋式帆船に乗りこんだ。箱館に到着して適当な英語の教師を探したが、八方手をつくしても見つけられなかった。そこで私の心は一転して、国外脱出を考えるに至った。
 しかし、私はためらった。祖父や両親を悲しませるだろう、との思いがあったからだ。その思いがしばらくの間私の心を捉えた。けれどもやがて別の考えが頭にひらめいた。それは、私は両親から生まれ育てられたが、本当は私は天の父のものである。それゆえ私は天の父を信じ、その父に感謝し、そしてその父の道を進まなくてはならない、という考えである。こうして私は日本から連れ出してくれる船を探し始めた。

 自分の思いと、家族の絆をどうするか。家族の絆は大切でありますので、ここに葛藤が見られます。面白いことに、函館の生活に関してニコライ神父のことは全然出てこない。ニコライは新島の国外脱出に反対したということですので、新島としてはあまり評価しなかったのでしょう。自分の思いをわかってくれないニコライに対して、新島はその後も言及しておりません。

 あれこれ苦労した末に、私は上海行きのアメリカ船〔ベルリン号〕に乗りこんだ。上海の河口に到着ののち、ワイルド・ローヴァー号に乗り換え、約八ヵ月間中国沿岸を往来した。神に守られて、四ヵ月間航海したのちボストン港に着いた。
 初めて〔同号の〕H・S・テイラー船長に〔上海で〕会った時、「もしアメリカに到着したら、お願いですから学校に行かせてください。よい教育を受けさせてください。そのため私は力の限り船内で働きますし、あなたから賃銀をいただくつもりもありません」とお願いした。船長は「帰国したら学校に通わせてやろう。そして船内では私の使用人として働かせてやろう」と約束してくれた。船長は金銭こそ支給してくれなかったが、衣服や帽子、靴、その他のものを買ってくれた。船中では航海日誌のつけ方、緯度、経度の測定の仕方を教えてくれた。
 当地〔ボストン〕に着くと、船長のおかげで長い間船内にとどまることができた。その間私は船を守る荒くれた不信心な船員たちと一緒だった。

 信仰をもっていない船員たちがいたわけです。新島は悶々として三ヵ月間を過ごすわけです。船長には可愛がられていたのですが、船員たちとの信頼関係は船長ほどにはなかったと思われます。

 港の人は誰も彼も次のように言って私をおどした。「南北戦争以後、物価があがったので、陸の上ではおまえに救いの手を差しのべてくれる者など一人もいないぞ。残念だが、もう一度海に戻るしかない」と。

 教育を受けることはお金がかかることです。受け入れ先も決めずにやってきた新島に対する船員たちの反応は、ごく自然なものです。「お前、勝手にきて、どないするんや。南北戦争後、物価も上がっているし、どこの馬の骨かわからないような東洋の人を誰がサポートするのか」。船の上で新島は辛い状況にあったわけです。

 私は衣食のために相当働かなくてはならないとも思った。学校に納める金を稼ぐまでは、とうてい学校には入れない。そのような考えにとりつかれると、私はあまり働く気が起こらず、また本も楽しく読めなかった。精神に異常をきたした人のように長時間ただあたりを見回すだけだった。毎晩、ベッドに入ってから「お願いですから私をみじめな境遇に追いやらないでください。どうか私の大きな志を成就させてください」と神に祈った。
 それから私は船の持主であるハーディーさまが私を学校へ送り、経費を一切出してくださるかもしれないことを知った。船長からこのことを初めて聞かされた時、私の両眼は涙にあふれた。氏への感謝の気持が大きかっただけでなく、神は私をお見捨てにならない、と思ったからである。

(『現代語で読む新島襄』pp.50-56)

 以上が「脱国の理由書」です。皆さん、どう感じますか。この「理由書」で新島はハーディーの心をつかんで、高校、大学、大学院と教育を受けるための教育費、そして生活費すべてを賄ってくれるアメリカの父を得ます。冷めた言い方をしますと、そんなに感動するような文章ではありません。現代人が読むと、この程度でタダでアメリカで教育を受けさせてもらえて、タダで飯を食わせてもらえる、ラッキーだなと思うかもしれません。しかし、ハーディーは新島の拙い英語を読んで感じとったのです。「よし、私が面倒みてやろう」と。なぜハーディーは心を動かされたのか。その手掛かりとなるものを今から指摘したいと思います。

学究心・向学心

 「脱国の理由書」について、いくつかポイントを挙げますと、まず、ハーディー夫妻が感銘を受けた理由についてです。一つ目が学究心、向学心が新島のエッセイのなかに出ていたと思います。他のことに構わず、学問一途に打ち込むという、ひたむきな姿、学問に励もうと思うこと。新島が渾身の力をこめて、拙い英語で綴った文章です。原文を読むと、確かに間違いも多い英語ですが、ハーディーはその英語を読んで新島を養子として引き受ける決意を固めたのです。どのくだりが、ハーディー夫妻の心を動かしたのか。人は理屈で動くように思えて、実は感情で決断します。頭より心で決断してしまうところがあります。新島が周りからの無理解、迫害の状況のなかで一途に学問に打ち込もうとしている姿や、藩主に何度も殴られ、叱られては逃げ出して勉強し、見つかってはさらに叱られ、また逃げ出して勉強する。上司に叱られて、学究心が衰えるどころかますます強まっていった様子は、ボストンに暮らす上流階級の人たちにとって、グッときたのではないでしょうか。また、オランダ語の文法書を学んで、自分の興味のある自然科学の書物を読んでいるこの学びの姿勢も評価できるでしょう。オランダ語は好きではないけれど、自然科学を学ぶための手段として使っている。どういう方向で、興味のある学問にアクセスしていこうとしているのかという姿が伝わってきます。学究心と向学心があり、方法も考えている青年であれば、今はたどたどしい英語であっても、アメリカで教育の機会を与えると着実にやっていく、潜在能力は高いとハーディーは判断したのではないかと思います。

自由・民主主義

 二つ目は、欧米の価値観(自由・民主主義)を、新島はしっかり理解、評価しているということです。アメリカ合衆国を根底から支えているもの、それは自由と民主主義であります。新島がそれを正しく理解し、正しく評価している。現代人の我々にとって、日本人にとって、そんなにすごいことなのかなと思いますが、アメリカ人にとって選挙は大事なものです。新島はアメリカの大統領を選挙によって選ぶということで「脳味噌がとろけ出すくらい驚嘆した」と書いています。また「日本の将軍は人民を豚や犬のように扱うけれど、それではいけない。私たちも選挙によって自分たちの将軍を選びたい」と言っています。これはまさにアメリカの民主主義を肯定するものであります。選挙をするということは、アメリカ人にとっての誇りなのです。勝ち負けはともかく、選挙に参加することが重視されます。お祭りみたいなところがあるのですが、選挙民は自分や、家族のこと、地域社会・国家・世界のことなどを真剣に自分の頭で考えて、一票を投ずるわけです。アメリカ市民として重要な権利であり、責務であるという認識が強いのです。
 日本も民主主義国家といわれますが、その違いを感じたことがあります。ボストンにしばらく住んでいたのですが、二〇〇四年、再選を目指すブッシュ大統領と、マサチューセッツ州選出の民主党のケリー上院議員、二人が大統領選を戦った時期でした。当時、小学校二年生の娘の授業で模擬投票があったのです。娘は“No more war”戦争は嫌だと、“More money for education”教育にお金を、ということでケリーを応援して、投票したのです。実際の選挙はケリーが負けました。当時、対テロ報復戦争でアメリカはアフガニスタンとイラクに軍を派遣していました。二〇〇一年九月十一日の同時多発テロ事件をご存じと思いますが、四機の航空機がハイジャックされて、二機がニューヨークの世界貿易センタービル、ツインタワーに激突してビルが倒壊したという凄まじい事件がありました。その後、ブッシュ大統領はイラク・イラン・北朝鮮はテロ支援国家であり、「悪の枢軸国」であるとして非難した。アメリカ国民は、そのレトリックに騙されて、戦争をすることに賛成していったのです。そのために何百億ドルという軍事費が湯水のように使われ嵩んでいきました。そのしわ寄せが他の予算にくるわけです。その一つが教育費だったのです。娘は公立の小学校に通っており、日本では想像しづらいと思いますが、教科書が足りず、クラスメイト同士で共有していました。日本では教科書は無償配布です。しかし教育費がカットで友人と共有しないといけない。教科書を家に持って帰れない状況です。日本の義務教育では考えられないことが生じていた。アメリカの悪い部分です。教科書さえ、ろくに与えられない現実に、小学二年生の娘なりに憤りを覚えて先ほどのフレーズがとび出したのです。“No more war, more money for education”小学生に模擬投票をさせるということ、これは日本では信じられないことです。賛否両論あると思いますが、私個人としてはアメリカの良い点だと評価したいのですが、日本の小学校で、自民党総裁選挙の模擬選挙や、民主党党主を選ぶ模擬選挙をさせるということは考えられないことだと思います。
 ここが重要な点で、同じ民主主義国家であるアメリカと日本の大きな違いです。アメリカでは民主主義の裾野が広いのです。小学生から模擬投票をさせても社会的に合意される、問題にならないという背景があるわけです。目的はどちらが勝ったではなく、思想調査でもなく、投票を経験し投票することの大切さを小学校のときから教えていくことなのです。世の中のこと、国のことは関係ないことではなく、一票を投票することによって社会に参加していく。そのためには自分自身の意見をもたないといけないし、状況をしっかりと理解して把握しないといけない。小学二年生の娘がテレビニュースを見て、私に大統領選挙の話をするわけです。「ブッシュ大統領は、戦争ばっかりやっていて教育費をカットしているからだめだ。私の学校は教科書が不足している」。自分が生きている社会にある側面からかかわって、積極的に自分の意見をきっちりもつという教育がされていくのです。これは大事なことで、民主主義の裾野が広いことが、そこからわかります。二〇〇九年、日本で似たような事例がありました。ある中学校の課題テストで、支持政党を尋ねる問題を出し、それが問題になったのです。テスト形式で尋ねるというやり方がまずいと思います。後で採点の対象にはしないと生徒には伝えたそうですが誤解されました。「支持政党は」とテスト形式で聞くわけですから、調査されているような感じがします。日本的というか、民主主義の本質を教える意図としてはよいけれど、やり方がまずかった。テスト形式にしてしまうのは、アメリカのよいところを、はき違えて使ってしまうということで、問題になり、学校側が謝罪したということです。ともあれアメリカの民主主義、言論の自由、個人が自分の意見をしっかりもつことは、とても評価されています。この価値観はアメリカ建国以来、社会に底流しているものです。それを新島がしっかり理解し、評価しているということが「理由書」から伝わってきたと思います。日本人が思う以上に、このような価値観を示したことは、アメリカ人にとって評価が高いです。ハーディーに好印象を与えたと思います。

キリスト教信仰

 三つ目が、キリスト教信仰です。聖書を学び、キリスト教に興味をもっており、今までの歩みにおいて神に祈る生活をしている。この時点で新島は洗礼をまだ受けていません。ボストンに到着して一年後に受けていますが、彼の信仰はすでに本物であるということが「理由書」から読み取ることができると思います。「神の御手に委ねた」というフレーズ。「ひたすらこの身を神の御手に委ねた」。日本語ではそういう表現ですが、英語では“providence”というキーワードを使っています。“providence”というのは、難しい言葉で、神の摂理。世界のすべてを導きおさめる神の意思・恩恵・恵み。神がすべてこの世を治めているという概念です。「神の御手に委ねた」という訳文でよいと思いますが、原文は“providence of God”となっていますので、ハーディーにしてみると「うん、なるほど」と思ったことでしょう。神の摂理に自分自身を委ねた、神がこの世をすべて支配して導いてくれると。信仰のない人は、なかなか考えることはできません。通常、人は自分の思いで生活し、人間の論理しか考えません。宗教をもっていない人は、そうです。私は信仰をもっていますが、通常は人間の思いで行動していることが、ほとんどです。しかし、“providence”神の支配、導きがあると思い出すことができるかどうかは、信仰をもって歩むか、そうではないかを決めていきます。新島自身も葛藤、思い患い、悶々とした生活のなかで、また周りの無理解のなかで、自分の思いがあるけれど、うまくいかない、「神の思いとは何なのか」という問いかけがあったと思います。人間側の努力は大事で、一生懸命、最大限の努力をしたあと最終的には「神に委ねます」という潔さ、決断が、信仰をもっていくときに要求されてくる。新島は、まだ洗礼を受けていませんでしたが、まさにキリスト信仰をもっているということをハーディーに思わせるに十分な内容であったと思います。
 最後に「私の両眼は涙にあふれた」。氏への感謝の気持ちが大きかっただけでなく、「神は私をお見捨てにならない、と思ったからである」と感謝している。通常は恩恵を与えてくれるハーディーに賛辞を述べて、終わって問題はないと思います。しかしそれだけでなく、そのように取り計らってくださった神への感謝をもって「理由書」を結んでいるのは、なかなかのものです。新島の信仰が本物であることがわかります。ハーディー自身も、自分を賛美するのでなく最後に神に感謝している内容を読んで、「こいつは本物だな」と思ったことでしょう。
 ハーディーはフィリップス・アカデミー、アーモスト大学、アンドーヴァー神学校という牧師を育てていくことを役割の一つとしてもっていた学校、この三つの学校の理事をしていたのです。アメリカン・ボードという宣教師を派遣する団体の理事長もしていました。新島のキリスト教信仰は、東洋の日本人がここまで真剣にキリスト教信仰をもってやってきた、危険をおかしてやってきたということで、ハーディーに好印象、強い印象を与えたと思います。ハーディー自身も牧師になりたいと思って、フィリップス・アカデミーに行ったのです。しかし病気のために、また経済的理由から、途中で退学しています。牧師を育てていくことは彼にとっては自分が叶わなかった夢を叶えることであり、生涯の使命として感じていたようです。以前、ハーディーは中国から青年を受け入れて、その青年をクリスチャンに育てようとしたことがありましたが、失敗しました。クリスチャンにならずに去っていったので、日本人青年・新島襄との出会いというのは、その意味で雪辱を果たす絶好のチャンスであったとも解釈できるでしょう。
 以上三つの点を挙げておきました。これらの点から、もう一度読み直してみると、さらに理解が深まるのではないかと思います。

コミュニケーション能力と自己PR

 次に「脱国の理由書」についてもう少しコメントしたいことがあります。それは、拙い英語でも人を動かすことができるという実例です。英語が苦手であっても、自信を失わず、やりたいと思っていることを相手に一生懸命伝えようと努力すれば、物事はうまくいくということです。因みに「脱国の理由書」の英語について簡単な分析をしているものが、同志社大学文学部名誉教授の北垣宗治先生の著書に出てきます。原文を読んで、北垣先生の分析を読むと「そうなんだ、新島はこんな英語で書いたんだ」と思います。ただし、学んで二年足らずで、そこまで書いたのは、すごいことですので、そのことを念頭に入れながら読んでみてください。例えば、“I was wonderd”は、“I wondered”の間違いだし、“I pleased”は、“I was pleased”が正しいです。受動態と能動態の混同や、ぎこちない言い回しがあっても、新島の思いはハーディー夫妻に伝わりました。

(参考文献 北垣宗治著 『新島襄とアーモスト大学』 pp.146-156『「脱国の理由書」の英語』一九九三年 山口書店)

 ここで重要なことは、コミュニケーションの大切な要素は、雄弁であることよりも、伝えたいメッセージであります。新島の熱い思いは、拙い英語であっても伝わったということです。日本人は恥の文化をもっています。こういう表現をしたら恥ずかしいな、こんなことを言ったら恥ずかしいな、と。自分としては意見をもっているけれど、こんなことを発言して、賛同してくれなかったら恥ずかしいな、という文化ですので、どうしても間違いのない表現に意識を集中してしまうのです。しかし間違った英語でも、メッセージがあれば評価してくれるというのは、私も向こうに住んでいて感じたことです。ネイティブに勝つことはできません。第二外国語として学んだ者は、いつまでも母国語のアクセントは残ります。完璧なバイリンガルの人もいますが、母国語のアクセント、言い回しではネイティブに勝つことはできません。また、英語を勉強することは、それを手段として何をするかということです。英語をしゃべることが国際人ではなく、英語を使って何をするか。
そこがポイントだと思います。新島は国際人ですが、その時点では、英語は完璧ではなかった。英語を使ってハーディーの心を射止めたことは、新島としては完璧な仕事をしたわけです。
 最後に、日本人に不得意なことですが、自己アピール。誇張して描かれているところが、この「理由書」にはあったと思います。家族や近所の人からも殴られたとか。二日で函館留学の準備をしたとか。実際はどうだったのか定かでないところもありますが、何かをアピールするときには多少、脚色、誇張することはあっても許されるわけです。もちろんケース・バイ・ケースですので、過度のアピールによって評価は下がることもあります。しかし状況によってはしっかりとアピールしないといけないことも出てくる。新島は渾身の力で、背水の陣で臨んだわけですから、当然のことです。
 皆さんの多くの方は就職されると思います。三回生向けの就職ゼミで自己PRを書かせるのですが、今までそういうことをしたことがないから、多くの学生はうまく書けません。人の意見や先生の意見を聞いて学んで覚えて吐き出すのは上手ですが、自分の良さ、個性を自分の言葉で表現し、相手を説得することは下手です。そういう訓練を受けてきていませんから。これからは、グローバル社会になっていきますので、黙っていてよいということは通用しなくなる。ただ「沈黙は金なり」という諺があるように、ペラペラと表現すると価値を下げることもあります。しかし時と場合によって、しっかりとアピールすることが必要となることがあるということも、ぜひ、新島の「脱国の理由書」をきっかけに、これからの歩みに生かしていただければと思います。
 「脱国の理由書」について、より詳しく内容が「私の青春時代」に出てきます。(『現代語で読む新島襄』所収)さらに詳しいことを知りたい人はそれを、読んでみてください。

二〇一〇年六月三日 同志社スピリット・ウィーク「講演」記録

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