奨励 |
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アメリカン・ボード、神戸女学院、同志社
はじめに―自己紹介 こんにちは。ただいまご紹介いただきました飯でございます。姓はご飯の「飯」で、名前は「謙」です。愛媛県今治市が両親の出身地です。住んだことはありませんが、父母双方の祖父母がおりましたから夏休みには、ひと月くらい過ごした少年時代の思い出がございます。私は一九五五年、岡山県倉敷市で生まれました。五歳のとき、東京に父の転任に伴って、東京で暮らし、二十二歳で大学を卒業してから、同志社大学に三年編入し、今出川校地で学びました。その後一九八〇年代から一九九〇年代、同志社大学に京田辺校地ができたころ、非常勤講師でこちらのキャンパスに来ていました。今日、久しぶりに同志社前の駅からここに登ってきて、あまりにも建物が立派になっているのでびっくりしました。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』という映画のなかに、三十年ほど経った未来で、建物や町が全く変わってしまっている場面がありましたが、その映画を、ふと思い出すような想いでした。 建学の精神 私は旧約聖書を勉強しました。旧約テクストは主にヘブライ語で書かれています。そのヘブライ語で「学ぶ」と「教える」は、活用は違いますが、同じ単語です。古代ユダヤ人は教師から「学ぶ」ことは、実は教師に対して「教える」ことだと考えていたようです。 神戸女学院と同志社 神戸女学院は、大変すばらしい学校です。神戸女学院で建学の精神を考えていくと、同志社の「良心」と関連性があるなと思うことがあります。同志社と神戸女学院、同じアメリカン・ボードというミッション、宣教師派遣団体と密接なかかわりのなかで設立されました。アメリカン・ボードによって建てられた学校は西日本ですと、他には豊中市にあります梅花学園、神戸の頌栄保育学院短大、愛媛にあります松山東雲学園など、いくつかございます。中でも、神戸女学院と同志社は最も早く、アメリカン・ボードが、大変な情熱を注いでつくりあげた学校であると言えるでしょう。同志社も、新島先生が創立者でありますが、デイヴィス、ラーネッドら、多くのアメリカン・ボードの宣教師と、いろいろな密接な関係のなかでつくられています。 アメリカン・ボードアメリカン・ボードの話は、講義をとっておられる皆さんは、すでにお聞きになっておられることと思います。アメリカン・ボードの正式名称は「American Board of Commissioners for Foreign Missions」(ABCFM)です。米国海外伝道会理事会とでも訳したらよいでしょうか。これは、米国の会衆派教会の信徒たちが中心になってつくった宣教師の派遣団体です。一八一〇年に創立され、インド・中国・アフリカなど各地に伝道してまいります。アメリカン・ボードの母体である米国会衆派教会は、一九五七年にルター派の流れを汲むグループや、改革派など、いくつかの教派と合同して合同教会(ユナイテッド・チャーチ)をつくります。そのとき会衆派教会(コングリゲーショナル・チャーチ)の連合体は、なくなってしまいました。しかし、今でもコングリゲーショナル・チャーチという名前を使い続けている米国の教会はたくさんございます。教派としての明確なグループは一九五七年になくなった。そのために一九六一年、海外の宣教団体が合同して「UCBWM」という団体に合同しまして、アメリカン・ボードは解消されてしまったわけです。アメリカン・ボードが一九六一年に解散するときにもっていた基金を整理いたします。それを世界各地の教会や団体、学校に献金していきます。実は神戸女学院もこのときにかなり多額なお金をいただきまして、今でも奨学金として使っております。アメリカン・ボード賞として記念賞の基金を運用しております。そして一九九六年、もう一つ別の団体と合同して、「CGMB」という新しい団体をつくります。 会衆派教会 この同志社や神戸女学院の精神、アメリカン・ボードというグループの精神的な背景となったのは、会衆派教会でした。そこで、会衆派教会のことにもう少しふれておきたいと思います。イギリスでは、一五三四年の宗教改革で、英国国教会を設立します。それから数十年、英国国教会はカトリックなのか、プロテスタントなのか、内部で苦しまなければいけなかったわけですが、やがて、カトリックでもない、プロテスタントでもない、それを橋渡しができる教会という中道主義を打ち出します。それが中途半端だと思う人たちが出てきまして、英国国教会を批判するわけです。そこで、英国国教会から出てしまう分離派、そうではなくて、中にいて改革を志そうとする非分離派、大きくこういうグループを生み出していきます。分離派、非分離派、そのどちらからも、誰かからキリスト教の理解はこうですよとか、あるいはキリスト教というのはこれを信じることですよと決めつけられないで、もっと自由に聖書を読んだり、自分自身の感動を語ったりしたいと願う人びとが出てきました。その人たちは、牧師中心の教会ではなく、教会に集まってくる信徒を中心とする教会形成ができないかと考えます。教会に集まってくる人たちが自由に発言できる、信徒中心の教会をつくっていこうとしました。この「信徒」を「会衆」と呼びました。そうして会衆派と称しました。しかし、こういうグループの人たちに迫害が及んでまいります。会衆派の人たちはイギリスに留まっていることができなくなって、オランダに逃げる。さらにオランダでも、あまりうまくいかない。そこで、船に乗って新大陸、アメリカ大陸を目指したわけです。まずアメリカの北東部、プリマスやボストンに入植して、そこで聖書の理念を中心とする理想的な国家をつくっていきます。互いに与えられた力を隣人のために捧げあう、それが神様のお喜びになることだ、そういう国家をつくりましょうと言って入植を始めていくわけです。このとき、会衆派教会は初めてその地で花開いていくことになります。イギリスでは日陰者の身であったわけですが、米国の東部、マサチューセッツ州、コネチカット州の一角で、大変大きなグループになっていったわけです。 世俗化と大覚醒運動ところが、一六〇〇年代の後半になり、第二、第三世代に入っていくと世俗化が進んで、まあ、そういうことを言わなくてもよいではないかと少し緩やかになっていく。最初の志がだんだん忘れられていくわけです。それからさらに四十年くらい経った、一七三〇年代、もう一度アメリカの理想を思い起こしましょう、信仰に立って共同体をつくっていた時代を思い起こしましょうという大覚醒運動が起こります。その時代になると合理主義とか、生産至上主義とか、格差を厭わない社会とか、現代日本によく似ているような状態がアメリカのなかでも生まれていたわけです。そのなかで本来の理想を、もう一度取り戻そうという運動が起こるわけです。その中心となった人がジョナサン・エドワーズです。この人は、会衆派教会の牧師で、一七四〇から四二年の大覚醒運動を導きました。この灯は彼の死後弱まるのですが、一七九五年、彼の孫でイェール大学の学長であったティモシー・ドワイトが、第二次覚醒運動を導きました。あの想いをもう一度思い起こそうと多くの若者が、これにインスパイアされ、信仰に生きていこうという決心をしていくわけです。 アメリカン・ボード設立そのなかで、一八〇五年にヘイスタック・プレイヤー・ミーティングが、偶発的になのですが、もたれました。これはアメリカのマサチューセッツ州の外れのウィリアムカレッジという学校で、五人の若者が、自分たちの夢を語り合っていた。そこに突然、嵐のような雨が降ってきた。五人は干し草の陰に身を置き、自然に祈りを始めた。アメリカは当初の理想を失っていったけれども、僕たちが海外の伝道に出ていくことによって、もう一度アメリカにあの時の情熱を思い起こしてもらうことができるのではないか、と。そこに参加していたサミュエル・J・ミルズという人が、卒業後、一八一〇年、アンドーヴァ神学校に進学いたします。新島先生が学んだ学校です。一八一〇年六月二十四日にミルズが神学校の先生に「僕は将来、海外に伝道しようと思います。会衆派教会は海外伝道のための組織をつくったらどうでしょう」と言う。すると先生が「あなたはタイミングがいい。二十八日に総会があるから、そこでアピールしてみなさい」とアドバイスをします。彼はその総会に乗り込んでいって、海外伝道の団体設立のアピールをします。するとその日のうちに、設立が承認されました。日本ですと、「前向きに検討しましょう」とか「積極的に受け止めます」ということを言ってごまかすかもしれませんが、アメリカでは即、設立を決定します。そうして九月五日、アメリカン・ボードの設立総会がコネチカット州のファーミントンで開かれます。一八一〇年ですから、今年が創立二〇〇年、記念の年です。皆さんは、アメリカン・ボードが設立して二〇〇年の年に、アメリカン・ボードの関係ある学校で学んでいるということになるわけです。そして、一八一二年に最初の宣教師が派遣されます。 日本伝道の始まり日本はこの時代、まだ鎖国でありましたから、日本に宣教師を、すぐ送ることはできなかったのですが、一八五三年、ペリーがやってきて、その後、開国されるわけです。明治維新が起こりますが、その間にアメリカでは、南北戦争が起きます。一八六一年から六五年。この間、奴隷解放、人間解放が論じられるわけですが、南北紛争後に、アメリカの理想にもう一度目を見開こうという機運が熟します。そして、日本が開国します。そこで、アメリカン・ボードでも日本に宣教師を送ろうということが検討され、最初の宣教師のダニエル・クロスビー・グリーンがやってきます。彼は、一八六九年十二月に横浜に到着し、一八七〇年三月、神戸に移ります。その後、一八七一年、O・H・ギューリックやJ・D・デイヴィスなど、同志社の設立にも深くかかわった人が来日しまして、一八七二年十二月、神戸の宇治野村に英語学校をつくります。これが同志社のもとになる英語学校です。翌年に神戸女学院の創立者となったミッショナリーレディー、イライザ・タルカット、ジュリア・ダッドレーの二人の宣教師がやってきます。この二人は最初、英語学校をお手伝いするのですが、そこからしばらくして独立し、女子のための学校をつくります。それが神戸女学院の前身になるわけです。 タルカット家 タルカット家は会衆派教会をずっと支えてきた家庭でありました。タルカット家の家系図があったわけではありませんが、いろいろなものを手かがりにたどっていきますと、彼女の八代前の祖先ジョン・タルカットが一六三二年、イギリスのエセックスから米国に移住してきました。トーマス・フッカーという有名な説教者が指導者となった移民でした。彼は会衆派教会の牧師であり、後に政治家となった人です。皆さんの中で、米文学を勉強しようと思っている方、トーマス・フッカーは初期アメリカ文学の教科書に最初に出てくる人です。トーマス・フッカーのグループは一六三二年、ボストンに移住してまいります。ボストンの共同体に入るのですが、率直に言うと、ボストンの人たちとうまくいかなかった。トーマス・フッカーは一六〇人余りの仲間をつれて、南西の方向に向かって移住して行きます。一五〇キロくらい行ったところに、コネチカット川が南北に流れています。緑も水量もたいへん豊かで、そこにいると気持ちの落ちつく川です。このコネチカット川とぶつかったところに定住しました。そこが今日のハートフォードという町です。一六三六年のことでした。ハートフォード居留地をつくっていきます。彼らはそこで、コネチカット基本法という宣言をします。「我々は我々のため、そして我々の後継者のために善を尽くす」と。これは大変面白い言葉だなと思います。「子孫のために」と言わず「後継者のために」と言っています。血がつながっている人のために頑張ろうというのは、ある意味考えやすいことかもしれない。しかし、会ったこともない、これから会うこともないかもしれない、血のつながっていない「後継者」のために善を尽くそうと。そのような入植地をつくっていきます。ハートフォードは、今はコネチカットの州都になっています。そこに会衆派教会の中心的な存在となる神学校ができました。ハートフォード神学校です。かつて同志社の卒業生が、よくこの神学部に留学しておりました。ハートフォードの人口はどんどん増えて、人びとは周辺に広がっていきます。タルカット家は北東の方向にどんどん移住していきます。タルカット家は多くは農民だったのですが、一八〇〇年代の初め、ハートフォードから二〇キロ北のロックビルに移住してきます。そこは何もない土地ですが、山があり、その上に大きいきれいな湖があります。そこから滝となって、ものすごい勢いで水が流れ落ちてまいります。タルカット先生のお父さんとそのお兄さん(叔父)は、川の水を使って紡績工場を始めます。この紡績工場があたりまして、タルカット家は町の名士となります。私は、去年の夏にロックビルの町を訪ねて、住んでいる人に「イライザ・タルカットについて調べたいのだ」とたずねましたら、「その人のことは知らないけれど、タルカット家はこの町をつくった」と。タルカット・ロード、タルカット・パーク、タルカット・ヴィラとか、タルカット家にかかわる地名がたくさん残っている町でした。 来日前のイライザ・タルカット そうして一八三六年五月二十二日、イライザ・タルカットが誕生いたします。一八四七年四月、十一歳になる直前に、父を天に送り、その年の秋、コネチカット州のファーミントンにある、ミス・ポーター女学校に入学します。この学校も訪ねてみましたが、深い祈りが捧げられる敬虔な校風をもった学校であると思いました。神戸女学院の基になったのは、この学校だなと思いました。そこで五年間学びまして、卒業後助教師を勤めます。記録をみると「ラテン語とフランス語を教えた」と書いてあります。しばらくここに留まってくれと頼まれたからでしょう。しかし、一八五四年七月、母の急逝により、職を辞します。しばらくまだ幼かった妹さんの面倒を見ます。 来日後の活動 日本にやってきまして、まず宇治野の英語学校の手伝いをします。その夏に有馬に滞在したときのことです。神戸は南側に海があって、北側は六甲の連山。その向こう側の有馬温泉の保養地に宣教師の先生方はしばしば滞在していました。その折々、三田から来た婦人たちと出会います。その婦人たちから「私たちの娘のために学校を開いてくれないか」と頼まれ、タルカットとダッドレーは、一八七三年十月、宇治野の英語学校から独立して神戸花隈村に私塾を開設しました。河原町から阪急電車に乗って三宮まで行きます。三宮の次が花隈です。この時、住まいを提供してくれたのが白州退蔵という人で、この人は最近話題の日本が戦後復興するときに尽力した白州次郎の祖父にあたります。この私塾が発展し、一八七五年十月に神戸女学院がつくられます。 活動を導いた精神 フィリップス・アカデミーは新島先生が学ばれた学校です。校章には、農場に蜂が飛んでいる上に太陽が輝いて、太陽にNON SIBIと書いてある。ラテン語で「自分のためではなく」という意味です。NONは、not、SIBIは、私自身。「自分自身のためにではなく」。NON SIBI。アメリカン・ボードの宣教師の間では、この言葉が合い言葉のように語られていたと申します。これを合言葉として、アメリカン・ボード宣教師―イライザ・タルカットも新島襄もその一人でしたが―働いておりました。私たちもその連続線上に立っています。 終わりに イライザ・タルカット先生は、日本に骨を埋められました。お墓は、神戸の外人墓地にあるのですが、墓碑に刻まれているのは「よい忠実な僕よ、よくやった。主人と一緒に喜んでくれ」というマタイによる福音書二五章二一節の言葉です。これはイエスの譬え話、「タラントンの譬え」の一部です。どういう話かというと、タラントンはギリシャ語で重さを示す単位です。それがやがて、金一〇タラントン、銀一〇タラントンと何かを交換する時の金額を示す単位となって、やがて人間の能力を指す単語になります。日本語でもテレビタレント(、、、、)と言うようなときに使われています。イエスは、一人ひとりにいろんなタラントン(能力)が与えられているが、そのタラントンを隣人のために用いるようにと語ります。そういう話が「タラントンの譬え」です。与えられたタラントンを隣人のために用いる。タルカット先生の墓碑にはこの言葉が刻まれています。神から与えられたタラントンを「自分のためにではなく」(NON SIBI)という思いから、隣人のために献げでいった人だということが、ここに書かれています。 二〇一〇年六月四日 同志社スピリット・ウィーク「講演」記録 |
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