奨励

多くの人に支えられて


奨励 加藤 あや〔かとう・あや〕
奨励者紹介 同志社大学文学部生

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

(コリントの信徒への手紙一 一〇章一三節)


「神様は乗り越えられない人に乗り越えられない試練はあたえない」。

入院中、友だちが送ってくれた手紙の最後に書いてあったこの言葉を読んで、私は涙が止まりませんでした。この言葉は私に生きる勇気を与えてくれました。そして今こうして私が試練を乗り越えることができたのは、私にはたくさんの人の支えがあったからだと思います。
二年前の四月二十五日、私はあのJR福知山線脱線事故の一両目に乗っていました。突然の大きな衝撃を受けて、私の体は何かに押しつぶされ、身動きさえとることができず、目を開けても真っ暗でした。何が起こったのか理解することができず、夢かなと思ったのもつかの間、周囲の叫び声や狂ったような悲鳴が耳に入ってきました。私は「夢であって、多くの人に支えられて夢であって」と何度も心のなかで叫びました。けれど、いくらそう叫んでも夢ではなく、それは紛れもない現実でした。
「お母さん、助けて!」気づいたら私はこう叫んでいました。頭のなかに家族の顔が浮かび、その朝家を出るときの情景がフラッシュバックしてきました。「私は死にたくない!」「生きたい!」本当に心からそう思いました。
私の携帯のバイブレーションが鳴っているのが分かりました。どこにあるかはわかりませんでした。だけどみんなが心配してくれている。「みんなにもう一度会いたい」「私はここにいるよ、ここに生きているよ」そう何度も何度も心で繰り返しました。
一両目には、なかなか助けが来ませんでした。何時間かたって、私を助けてくれたのはレスキュー隊のお兄さんでした。ガソリンが充満していたせいで電気カッターが使えずに救出まで相当の時間がかかりました。そんななか、お兄さんは私の手を握り「絶対助けるから諦めんな!」「今、後ろにいっぱい仲間がいて一緒に助けてくれているから安心して。絶対に助け出すから!」と言ってくれました。私は今もその手の温もりを鮮明に覚えています。あのとき、あの力強い言葉と温もりがなかったら、私は不安に押しつぶされていたかもしれません。そして何より、レスキュー隊の方々の助けがなかったら今の私はここにいません。あのときのことは今も私の生きる励みになっています。
私は重傷でした。手・足・顔の骨折、体中の傷、頭はパンパンに腫れ上がり、首も鞭打ち状態、右足については筋肉も血管も腱もすべてが抉り取られてしまいました。手術をしてからの二週間は毎日四十度の熱が続き、ベッドの上で寝返りさえ打てない状態でした。
だけどそんな状態のなかで頑張って生きようと思えたのは「生きていてくれてありがとう」と言ってくれる家族や友だちなど、たくさんの大切な人がいたからでした。辛いときは一緒に涙を流してくれたり、私を笑顔にしてくれたり、いつもいつもそばで私を支えてくれていました。そんな支えがあったから、たくさんの命が失われてしまったなかで生かされた命を一生懸命に生きよう、私はそう思うことができました。
私は入院中あることに気づきました。ベッドの上で動けないときテレビで見た、「もしも世界が一〇〇人の村だったら」という番組の一節でこのようなものがありました。

 「もし、着る服があり、寝る場所があり、お財布にお金があるなら・・・あなたはこの世界の中で最も裕福な上位八パーセントのうちの一人です。もしあなたの両親がともに健在で、そしてまだ一緒なら・・・それはとてもまれなことです」。
私は、当たり前すぎてあまり考えることがなかったことに気づかされました。今のおいしいものが食べられて、温かい布団に眠ることのできる生活がいかに恵まれているか、自分のそばに大切な人がいることがいかに幸せなのかということに。
私はそれから、入院生活であっても精一杯楽しもうと思いました。そんな私の生活を支えてくれたのは、友だちや家族はもちろんのこと、先生や看護師さん、リハビリの先生、補助婦さんや掃除のおばさんです。いつも「あやちゃん、あやちゃん」と勇気づけてくれ、ときには悩みを聞いてくれたり、一緒においしいものを食べたり、私のお兄さんやお姉さんのように、ときには友だちのように接してくださいました。たくさんの入院友だちもできました。私は本当にたくさんの心優しい人に恵まれていました。私の半年間の入院生活はさびしいとか辛いというよりも、たくさんの人の支えによって楽しいと思うことができ、今生きていることに感謝することができました。
私の祖父は私にずっと「人間万事塞翁が馬」と言っていました。当初私はその意味を理屈上は理解できてもその言葉を本当に納得することができませんでした。だけど今ならその意味がわかります。なぜなら、辛いことがあったなかでも、私は、今生きていること、そして大切な人がそばにいること、どんなに当たり前な毎日でもそれがどれだけ幸せなことかを感じることができ、毎日に感謝することができるようになったからです。
だからといってこの事故は決して許すことはできないし、忘れてはいけない事故です。私の右足には二年たった今も生傷が治らず、残っています。いまだに病院にも通い続けています。毎日薬を塗るたびにあのときのことを思い出します。そしてこの傷痕は一生消えることはありません。
多くの人の尊い命を奪い、今も多くの人の心と体に傷を残しています。そんななか、今、生かされた私にできることは、この事故を忘れることなく、生かされた命を大切に精一杯生きていくことだと思います。生きるとは、人に支えられ、そして人と人が支えあっていくことだと思います。私は本当にたくさんの心温かい人に支えられて恵まれていたと思います。
私を支えてくれたある人は私の「ありがとう」に対し「僕らがしたことに嬉しいと思ってくれたんだったら、次はあやちゃんが誰かに同じことをしてあげてほしい。そうすることが僕らへの恩返しになるから」と言ってくださいました。
私は今ある命、毎日に感謝し、今度は私が誰かを支えることができるように生きていきたいと思います。そして前を見て笑顔の絶えない毎日を送っていきたいと思います。
最後に私を支えてくれた家族や友だち、病院の方々、大学の先生、たくさんの心優しい方々にお礼を言わせてください。ほんとうにありがとうございました。

二〇〇七年四月二十四日 火曜チャペル・アワー「奨励」記録

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