奨励

人間をとる漁師

奨励 村山 盛葦〔むらやま・もりよし〕
奨励者紹介 同志社大学神学部准教授
研究テーマ 新約聖書学・初期キリスト教

 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

(ルカによる福音書 5章1-11節)

はじめに

 こんにちは。私が通っている教会は日本キリスト教団という日本では最も大きいプロテスタントのグループに属しています。全国を各地域ごとに教区として分けて運営しています。毎年、各教区の総会が2日間にわたって開催されます。総会ですので各種報告や予算案など事務的なことがらが大半ですが、伝道方針についての討議や声明発表などもあります。この総会は毎年ゴールデンウィークに開催され、今年も部分的に参加しました。
 2日目の午前中に、准允式(じゅんいんしき)という式がありました。教団の補教師試験に合格し、新しく教師のメンバーに加わった方を迎えるセレモニーです。いわば牧師となる最初のステップです。今年は3人の方が京都教区に迎えられました。式自体は、誓約や祈りなど毎年決まった内容であります。ただその中で、新しく教師に加えられる方の所信表明があります。どのような気持ちで牧師になるのか。どうして牧師になろうと決意したのか語ります。3名の方はすべて同志社神学部の大学院で学んだ方で、私も存じ上げている人物なので興味深く聞きました。
 今日に至るまで3人が、それぞれ独自の歩みをされてきたことを改めて知りました。苦労され、悩まれ、葛藤され、ここまでたどりついたことを知りました。お1人は双子の兄弟の兄としての歩みを語られました。弟は東京にある学校で牧師になるための勉強をしているそうです。その学校は同志社とは対照的な学風をもっており、そこの出身の牧師と同志社出身の牧師とが侃々諤々(かんかんがくがく)、しばしば対立することがあります。ご本人は自分はどのような立ち位置でやっていくべきなのか。自分の弟の存在を通して常に問いかけられている、と語りました。
 2人目の方は女性で母親がクリスチャンでした。しばらく前にその母親が病で亡くなりました。不治の病だったのでしょうか、母親は信仰者でありながらも神に対して「なぜなんだ、なぜこのような試練を与えるのか」と最後まで疑問を呈して天に召された、と。彼女にとって母親の死にざまは大きな試練となりました。しばらく教会から離れる生活が続きました。しかし神様に導かれ、神学部の門をたたき、今こうしてここに立っている、と。
 3人目の方も女性で母親がクリスチャンでした。中学生のときに阪神淡路大震災を経験し、神に対して疑問を抱きました。「なぜ罪もない多くの人がなくなるのか」「どうして神様は何もせず見過ごしているのか」と。さらに、彼女の父親は浪費家で挙句の果てには、一生かけても返済できないほどの巨額の借金をつくってしまいます。それが原因で家庭は崩壊し、彼女自身高校2年で学校を中退します。信仰を失い、心は冷え切り、長いトンネルを歩んでいたと思われます。やっとのことでたどり着いた教会で再び信仰心を温めることができ、今日に至ったと。
 3人の所信表明を聞きながら、大学で朗らかに過ごしている姿とその背後にある積年の苦労と深い悩みとのギャップに正直、驚きました。無論、私たちそれぞれにもふだん口にはしないけれど悩ましい問題、苦労があることでしょう。これが人の生きる現実であり、そこから逃げることはできません。

聖書箇所説明

 さて、今日の箇所はイエスが4人の漁師を弟子にするエピソードです。マルコによる福音書、マタイによる福音書にも同様のエピソードが記載されていますが、それぞれ微妙に異なります。今日のテキストであるルカによる福音書によると、漁師シモン(ペトロ)が前夜、漁が徒労に終わり、そのあと片づけをしていたところにイエスが登場します。するとイエスは沖に漕ぎ出して網を下ろしなさい」と命じます。昨晩徒労に終わったのに今更、とシモンは思ったことでしょう。しかしイエスの言葉ですからそれに従います。すると網が破れそうになるほど多くの魚がかかりました。シモン・ペトロはイエスの足もとにひれ伏して「私は罪深い者です」と告白します。おびただしい魚に驚き、それをひき起こしたイエスへの畏敬の念が生じたのです。また、漁師である自分がもっていた自負・誇りを完全に見透かされた、見抜かれた感があったと思われます。大工の息子であるイエスが漁について詳しく知っているはずもない。ペトロはイエスの言葉を一瞬、疑ったのかもしれません。「魚がかかるわけないでしょ、昨晩一晩中やってもだめだったんだから」と。
 自分の愚かさ、弱さ、罪深さを悔い改めたシモン・ペトロに向かってイエスは言います。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と。そして、ペトロと他の漁師たちはすべてを後に置いて、イエスに従いました。
 人間をとる漁師、とは比喩であります。キリスト信仰に人びとを導く伝道者、宣教者の働きを表現しています。ペトロはその後、イエスと寝食を共にしますが、決して出来の良い弟子とは言えませんでした。イエスが逮捕されたとき一旦、逃げたのですが、やはり気になったのかイエスが捉えられている大祭司の屋敷の庭に佇んでいました。すると近くにいた人から「お前もあの連中の仲間だ」と言われ、ペトロは即座にそれを否定しました。3度それが繰り返された。すると鶏が鳴き、イエスは振り向いてペトロを見つめられた。
 イエスが復活し、弟子たちの前に現れたあと、ペトロは力強い伝道者としていわば第2の人生を開始します。ペトロの説教を聞いた多くの人びと(3千人ほど)が洗礼を受け、仲間に加わりました(使徒言行録2章41節)。信徒たちは財産を分け合って共同生活をしながら、日々仲間を増やしていったのです(使徒言行録2章47節)。つまり、ペトロは、イエスの言葉に従って湖でおびただしい魚を捕えたように、多くの人びとを信仰に導くことができたのです。

伝道とは

 伝道師として私が教会で働いていたとき、伝道とは何かしばしば自問したものです。そのようなとき、キリスト教系の新聞記事に出会い、今もなおそれを大切にもっています。その記事は、伝道の方法は教派によって異なり、それぞれに一長一短があることを認めながら、次のように論じていました。
「『福音』とは、単なる教説のことではない。福音を宣べ伝えるとは、単にキリスト教の教えを人々に広めることではない。そうではなく、イエスの告げた『神の国』の福音は、神がすべての人々の父として臨まれ、人々の心と社会の全体にゆるしと和解、希望と愛、正義と平和を回復して下さるという、喜びの知らせである。(略)それは、何らかの真理についての教説ではなく、人の生きる現実である。イエスは、これを人々との日々の関わりを通じて、そして死に至るまでの神と人々への愛を通じて告げた。(略)だから、神の国の福音を宣べ伝えるためには、単なる言葉によらず、むしろ生き方と人々との関わりによらなければならない。(略)たとえ、一言も口に出さなかったとしても、自分の信仰に基づく生き方、無私の働き、小さい人々への奉仕を通して、何よりも雄弁に神の国の福音を宣べ伝えることができる」。(『キリスト新聞』1992年9月19日)
 イエスの告げた「神の国」の福音は、喜びの知らせであり、人の生きる現実である。それゆえ、その福音を宣べ伝えるには、単なる言葉ではなく、自らの生き方、人びととの関わり方が問われてくる。それが雄弁に神の国の福音を伝えることになる、と。

「生け捕る」こと

 「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」とイエスは語りましたが、「人間をとる漁師になる」と訳されている原語を調べますと、ギリシア語でゾーグレオーという単語が使用されています。「生け捕りにする」という意味です。「生きたまま捕える」。魚をとる漁師は生け捕りではなく、最終的には魚を殺します。しかし人間をとる漁師は生きたままで捕えることが大切になってくる。つまり、人間をとるという伝道の業は、人を殺すものではなく、人を生かすものでなければならないのです。
 伝道熱心にあの手この手で人びとを説得しようと努力することがあります。言葉や理屈に頼って「神の国」を伝えようとすることがあります。何らかの教説のみを知らせようとすることもあります。教会の信徒を一人でも増やそうと躍起になっていることもあります。そのようなとき、他人の生きている現実を十分に理解せず、それに鈍感になり、内面にある悩み、過去にじっくり耳を傾けることを疎かにしているかもしれません。そして、結果的には人を生かすことではなく、説き伏せ、殺してしまう漁師になっている。
 自分の愚かさ、弱さ、罪深さを悔い改めたペトロに向かってイエスは言いました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と。自分の弱さ、愚かさ、罪深さを本当に知る者が、他人の現実を理解し生かす本当の意味での「人間をとる漁師」になることができる、それを伝えていると思います。
 新しく教団の教師として所信表明をされた3人の青年たちは、人の生きる現実を大切にする牧師として育っていくことでしょう。私たちも今一度自分の弱さ、愚かさ、限界を振り返り、本当の意味で人間を生かす漁師として歩めるように日々努力したいものです。

2011年5月11日 京田辺水曜チャペル・アワー「奨励」記録

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