奨励

生きるということ

奨励 八田 英二〔はった・えいじ〕
奨励者紹介 同志社理事長
同志社大学長
同志社大学経済学部教授
研究テーマ 産業組織論および計量経済学

 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
 すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。

(ヨハネの黙示録 21章1―5節)

悲しい出来事

 JR福知山脱線事故から7年が経ち、今日は朝から関連ニュースが取り上げられておりました。2005年4月25日、私は学長として、学内で9時からの会議を進めておりました。10時になり、「どうも福知山線で脱線事故が起きたらしい。犠牲者が出ている模様」との一報が入りました。すぐにテレビをつけ、それ以後画面に釘付けになっておりました。死者が2名、3名と発表されていく状況でございました。それが数十名、最終的には107名に増えました。「そのなかには、同志社の学生も含まれている」という情報が入りまして、直ちに学生支援センター職員を事故現場に派遣し、情報収集と、負傷者の救援にあたっていただきました。それが、ちょうど7年前の今日でございます。残念なことに、3名の女子学生が亡くなりました。それぞれ3名の方のお通夜、お葬式に参列しましたけれども、ご家族の方々のご心痛を想うと声をかけることもできないような状況でした。1年後、そのうちの1名の方のご家族がホテルで祈念式を催されまして、「記憶を新たにして」ということでお友だちが集まり、私も参加させていただきました。アルバムに綴じられた生前の写真をスライドで投影し、1時間にわたりそれぞれの思い出が語られるという一周忌でございました。
 またあの事故では、30名を越える本学学生が負傷いたしました。事故から4年後、2009年の卒業式には、あの事故で両足を失われた卒業生に、車椅子で卒業式に出席していただきまして、私が壇を下りて卒業証書を手渡したということも覚えております。同志社にとりましては、本当に悲しい、そして忘れることのできない事件、事故でございました。またその同じ年の4月下旬には経済学部の1年生が、実家に帰る磐越自動車道でバス事故に遭い亡くなるということがありました。
 JR福知山線脱線事故では、多くの同志社の学生が事故に遭いました。JR京田辺駅のホームは、6―7両の車両を停めるに足る十分な長さがありましたが、同志社前のホームは長さが足らないため、一つ前の京田辺で、うしろの数両を切り離すことになっており、そのため学生は、前の車両に移っておく必要があったのです。「どうせ前に移るのだから」と、最初から前寄りの車両に乗っていた学生が多かったようで、それが本学の学生に負傷者・死傷者が多く出た理由の一つかもしれません。

志をもって生きる

 当時、学生のなかには、かなりの心理的ショックを受けた者が多くいたようです。特に、友人を失った学生、あるいはクラスメートが負傷したという学生などは、大きな精神的影響を受けたようでした。実は、私のゼミで2009年に卒業した女子学生(事故当時1年生)も1両目に乗っておりまして、1カ月くらい入院した後、元気に退院をしました。ただ心理的ダメージが非常に大きく、なんと声をかければいいか、といろいろ考えました。よく言われることですが、私たちが「いつ、どの両親の元に生まれるか」ということは偶然かもしれません。ただ一つ、「私たちは、いつかは死ぬ」ことは確実です。そして、「必ず死ぬ」ということを前提とするならば、「どのように生きるか」が、私どもの課題となるのではないでしょうか。今日のタイトルにも揚げておりますが、「生きるということ」とは何かというと、私は「志をもって生きる」ことが、本当の意味での生きるということなのではないか、と思うのであります。「志をもって生きる」ということで言えば、「創立者・新島襄」のことを考えざるを得ません。
 私は「新島襄は志の人である」と考えております。彼の強い志でもって同志社ができ、そして今の同志社がある。だからこそ私は、事故の被害を受けた学生、あるいはその影響を受けた学生に対して、彼のことを例に出して、「志をもって生きてほしい」ということを言っております。新島の生き方を二つのキーワードで表すと、一つは「志」、もう一つは新島の餞(はなむけ)の言葉の中にあるのではないか、と考えております。それは、明治12(1879)年6月に行われた、同志社英学校第1回目の卒業式での送別の辞であります。
 明治8(1875)年、同志社はデイヴィスと新島の2名の教員によってスタートいたしました。学生は6名、後に2名加わって8名。そして、最初の卒業式は、この今出川キャンパス内第二寮の1階で執り行われたと記録に残っております。卒業生が15名。全員が、明9(1876)年に熊本洋学校から移ってまいりました熊本バンドの学生でございました。卒業式は朝10時から夕方5時まで延々7時間に渡って執り行われたと記録されております。
 一人ひとり、20分、英語でスピーチを行う。そして最後に、新島校長の祝辞。新島は、中国の故事「まず隗より始めよ」の本来の意味について、隗より始めよとはどういうことかということを卒業生にお話しになっています。
 中国の戦国時代、燕(えん)の昭王は、全国から優れた秀才、実力のある人を集めたいということで、郭隗(かくかい)という人に「どうすれば優れた人材が我が国に集まるか」と問いただしました。郭隗は「まず自分のような平凡な男を登用してください。そうすると、郭隗のような平凡な男が登用されるぐらいなら、ということで私以上の優れた人材が各地から集まってくるでしょう」と言いました。そして実際に、王は郭隗を登用し、その後、全国から郭隗以上といわれる人物が集まった、という故事です。現代の日本においては、「まず自分からやりなさい」という解釈が一般的です。しかし、新島は「私は郭隗である。皆さんは学起である」と語りました。すなわち、新島は自分のような平凡な男でも、ここまでなれたのだから、皆さんはそれ以上になれるはずだという祝辞を述べたのです。そして最後(ここが、先ほど私が述べたキーワードなのですが)に、英語で餞の言葉を贈りました。

 “Go, go, go in Peace, Be Strong! Mysterious Hand guide you.”

 この「Mysterious Hand」とは、いわゆる神秘な、見えざる「神の手」であるといえるのではないでしょうか。まずできることを「志をもって」やる。最後には、「Mysterious Hand」が皆さんを導いてくれるであろう、と。これは新島の経験からくる言葉なのだろうと思いますが、私は、彼の言うこの「Mysterious Hand」というところに大変感銘を受けました。
 私は、新島は17歳のときに志を確立した、と考えています。どのようなことがきっかけだったのでしょうか。1860年新島が17歳のとき、初めて、江戸湾に浮かんだオランダの軍艦を見ました。彼は、これからの近代国家・近代文明というものは、欧米の文化を導入しなければ発展しないと感じ、それから航海術を学び、洋学の勉強をしました。そして4年後、函館から脱国しました。ご存じのように、彼が乗った船はベルリン号という商船でしたが、ただ船があったからというだけで脱国できたわけではありません。その船のセイヴォリー船長が新島の脱国を手助けしました。当時、密出国を手伝うことは、船長にとっても大きな賭けでした。決して、新島の志だけで脱国できたわけではありません。セイヴォリー船長との出会いが新島の脱国に大きく影響したと考えております。記録には、後日セイヴォリーはこのことが原因で船会社を解雇されたとあります。その後、新島は上海で新たな船を見つけました。それがワイルド・ローヴァー号で、テイラーという船長が新島をボストンまで連れて行ってくれました。その船の所有者がハーディーです。ハーディー家の支援によって、新島はフィリップス・アカデミーという高等学校で教育を受けることができたのです。そしてアーモスト大学に入り、アンドーヴァー神学校に進みました。帰国する直前の明治7(1874)年10月、グレース教会におけるアメリカン・ボード(宣教師派遣団体)第65回大会で、日本にキリスト教主義大学を建てたいとして寄付のお願いを行っております。
 そこで5000ドルの寄付が集まりました。ただ新島にとって最も記憶に残った、忘れがたい寄付は、自分の帰りの汽車賃2ドルを寄付してくれた農夫と、もう一人、2ドルを寄付してくれた年老いた婦人だと書き残しております。新島は、アメリカにおいても、彼の志を助けてくれた多くの人びととの出会いを経験しております。これも彼の考える「Mysterious Hand guide you!」ではなかったかと考えております。 同じようなことは日本に帰ってからも起こりました。キリスト教主義学校を建てるという彼の志を支えてくれた人がおります。山本覚馬、ジェローム・デイヴィスです。彼らと新島、その3名によって同志社ができます。山本覚馬は初代の京都府議会議長・商工会議所会頭です。同志社のこの敷地は元薩摩藩邸跡です。薩摩藩邸跡を購入したのが山本覚馬です。このような貴重な土地を同志社に提供してくれました。そこには新島の力を越えた大きな意志が働いていたという気がします。これも「Mysterious Hand」ではないかと考えております。因みに、山本覚馬の妹が山本八重さんです。来年はNHKの「大河ドラマ」で取り上げられることになっております。山本覚馬は会津藩主、松平容保とともに京都に渡ってまいりました。薩摩藩邸で幽閉されておりましたが、明治維新になって彼の見識が評価され、京都府顧問・商工会議所会頭・府議会議長となって新島を助けてくれました。このような優れた人物が新島の周りに集まったからこそ、新島の志、情熱が一つとなり、同志社大学となって大きく実を結んだのではないかと思います。その意味でも「志をもって生きる」、そのような人物には「Mysterious Hand」が作用してくれるのではないか、と新島の記録を読み返すたびに考えております。

志を受け継いで

 今日も、この逝去者追悼礼拝の場に若い学生の皆さんがおられます。皆さんには、ぜひとも「志」をもっていただきたい。本学に入学されて、ここで学ばれる限りは、ぜひ実践していただきたいのです。少なくとも、志をもつための準備はしていただきたいと考えております。そして、限られた命を燃焼し尽くしていただきたい。それがまた同志社大学生たる所以と考えております。同志社人として、志をもって生きていただきたいのです。くしくも、同志社という名前の中に「志」という文字が入っております。私たちすべてが同じ志をもつ必要はありません。それぞれが、大きな志をかかげて、その実現に向かって一歩一歩確実に歩みを進め、死を迎える瞬間まで歩き続けていただきたい、というのが私の願いです。私どもは不老不死ではありません。必ずゴールがあるはずです。ただ不幸なことに7年前の今日、3名の方々がこの大学での学びの途上で生命を絶たれてしまいました。また、いろいろな死が私たちを待ち受けているかもしれません。どのような死を迎えることになるにせよ、充実した毎日を送るためには、「まず大きな志をもって、その志の実現に向かって全力を尽くす」、そのような姿勢こそが、これからの若者の生き方ではないかと考えております。
 新島は1890年1月23日、46歳と11カ月で亡くなりました。彼は志の人であったと考えています。最後は神奈川県大磯の旅館百足屋(むかでや)で亡くなりました。10か条の遺言を残し、新島八重、徳富蘇峰らに見守られながら天国に召されていきました。私たち教職員は彼の志を受け継いでいかなければなりません。同志社大学ができあがった1912年は、ちょうど100年前になります。タイタニックが沈没したのも100年前です。同じ100年前の1912年、新島の強い志、リベラルアーツ大学を創りたいという志が実を結んだわけであります。その4年後の1916年、大学となって初めての、第1回卒業式が執り行われております。校長は原田助(たすく)社長でした。その後、新島の遺言を筆記した徳富蘇峰が卒業生に祝福の演説を行っております。どのような祝福演説だったかと言いますと、「茲(ここ)に第一回卒業生を社会に送らんとす。先生の霊にして知るあらば如何に満足せられ、如何に諸君を祝福せらるべきか。斯く考え来る時に我等区々の労の如きは殆んど歯牙に価せず」(『同志社時報』第百三十四號1916年8月1日発行)と。その祝福演説を受けて卒業生が第1回同志社の学窓を巣立っております。それ以後、100年間、同志社は若き新島襄を社会に送り出してまいりました。皆さんも新島の弟子である限り、志を大きくかざして、その実現に向けて全力を傾けていただきたいと思います。そのような人には神様の力が働くものだと信じております。それが新島のいう「Mysterious Hand guide you!」ではないかと考えております。
 最後になりましたが、昨年もまた3名の学生が亡くなり、生命医科学部の現役の先生も亡くなってしまわれました。天国におられる福知山線の事故に遭われた3名の方々、磐越自動車道のバス事故で亡くなられたお1人、そして昨年亡くなられた4名の方々に神様の平安があるように祈念いたしまして、私の今日のお話しとさせていただきます。ありがとうございました。

2012年4月25日 今出川水曜チャペル・アワー 逝去者追悼礼拝「奨励」記録

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