奨励

無(む)・無(む)

奨励 石川 立〔いしかわ・りつ〕
奨励者紹介 同志社大学神学部教授
日本キリスト教団正教師
研究テーマ 聖書の神学的・哲学的解釈、解釈学、教父学

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

(フィリピの信徒への手紙 2章6-8節)

宗教の「無」

 本日のメッセージの題は「無(む)・無(む)」です。なぜこのような題にしたかと言いますと、たわいもないことで、チャペル・アワーでお話しする今日の日付が6月6日だからです。6、6で「む・む」と付けました。
 題の付け方はたわいもないものでしたが、たまたま与えられた「無・無」という題から出発して考えていきますと、この「無い」という意味の「無(む)」は、宗教にとって極めて重要なキー・ワード、宗教の核心をつくキー・ワードであることが確認できます。このキー・ワードに導かれて、宗教の深さと神秘の一端に私たちは触れることができるのではないでしょうか。このチャペル・アワーの時間、ご一緒に、この言葉をいわば手の平に載せ、それを丸めながら、この言葉について考えてみたいと思います。
 宗教的な領域で「無(む)」という言葉を聞きますと、皆さんはまず何を連想されるでしょうか。禅仏教で言う「無」という言葉を思い出されるのではないでしょうか。お坊さんが書いた掛け軸などには、「無」の一文字だけのものもよくあります。禅仏教では、間違いなく「無」という言葉がキー・ワードの一つになっています。
 キリスト教ではどうでしょうか。キリスト教では、あまり「無」という言葉は使わないように思います。しかし、キリスト教でも「無」は大切な言葉です。
 今日のメッセージの題の二つの「無」は、一つは禅仏教の「無」、もう一つはキリスト教の「無」を表しています。

禅仏教の「無」

 まず、禅仏教で言う「無」とは何でしょうか。こちらのほうについては、私は素人なので、責任をもって述べることはできません。
 いろいろなところから情報を集めますと、禅仏教で言う「無」というのは、大体次のようなことかと思われます。禅で言う「無」というのは、「有る」に対する「無い」ではなく、「有る」と「無い」という二つの相対的な原理を超えた絶対的な「無」であって、座禅などを組んで目指していくのは、結局はこの絶対「無」を体得することであると言えるだろうと思います。「いや、いや、座禅に目的などはなく、座ること自体が目的であり、座ること、すなわち悟りである」―というような反論も聞こえてきそうですが、「無」を体得する、あるいは「無」になりきることが、まずは目指す境地ではないかと思います。
 あるいは別の説明もできるかもしれません。「無」というのは、宇宙の始まりのような何も無い広大無辺の世界です。人間の小さな争いや取引やねたみや怒りや欲など一切を超絶した世界です。生きることと死ぬことさえも超え、神も仏も私も無い、主体と客体が分かれず、時間も空間も超え、すべての願いをも超えている。しかし、満ち足りた至福の世界、感謝の世界―「無」とはそのような世界のようです。
 以上のように説明はしてみましたが、「無」はそもそも説明できるような事柄ではないでしょう。もし言葉によって描けば、「無」はそれをすり抜けてしまう。ですから、「無」という事柄はただ「無」としか言いようがないと言わざるをえないのかもしれません。
 仏教の「無」はとても明るく広大です。伸びやかです。とてもいいのですが、しかし、大変難しい。捉えがたく、理解を超えています。ですから、特別な修行をしたことのない私のような者は「何かよく分からない」と呟くほかありません。

キリスト教の「無」

 さて、では、キリスト教のほうはどうなのでしょうか。「無」はどのように理解されているのでしょうか。
 キリスト教のほうの「無」はとても分かりやすいです。といいますのは、キリスト教の場合は、聖書に、イエスという人がこの地上に生まれ、歩み、死なれたことが物語られています。ですから、私たちは、そのお姿を慕い、メディテーションすることで、たとえ気づきの遅い者だったとしても、いろいろなことが分かってきます。
 さきほどは、「フィリピの信徒への手紙」2章6節から8節までを読んでいただきましたが、その箇所と、もう少し後まで加えた11節までは「キリスト賛歌」と呼ばれている箇所です。この手紙が書かれた当時―「当時」というのは、大雑把に言って紀元後50年代から60年代ですが―集会のなかで讃美歌のように信仰告白が歌われていたようで、その信仰告白に著者パウロが少し文言を加えたものが、ここに出てくる「キリスト賛歌」であると考えられています。
 6節、7節「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました」。ここでは「イエス・キリストは、神であるけれども、ご自分を『無』にして人間の姿になられた」と、神話的な表現で言われています。この箇所に「無にする」という動詞が出てきます。自らの神の身分を捨て、あえて貧しい人間にまで自らを空しくし、低くする神の謙虚を「無にする」という意味のギリシア語で表しているわけですが、この動詞を名詞にして、このキリストの謙虚を「ケノーシス」というふうに呼んでおります。
 「キリスト賛歌」によれば、イエスは貧しい人間の姿になられただけではありませんでした。さらに7節後半、8節を読みますと、「人間の姿で現われ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とあります。「十字架」は犯罪人に対するローマの処刑方法ですから、「十字架の死」というのは、「ただ死なれた」というにとどまらず、「犯罪人として処刑された」ということが意味されています。キリストは人間の姿になったばかりか、人間から犯罪人として断罪され、拒否され処刑されてしまったのです。人間から人間以下と判断され、捨てられてしまいました。
 しかしながら、この方こそがキリスト教会の神様なのです。キリストは自らを空しくされ、そして、徹底的に「無」になられました。キリストは宗教的な大指導者として華々しく活躍されてもよかったのです。しかし、そうはされなかった。犯罪人として処刑されてしまいました―このことに何の意味があったのでしょうか。
 このことに私は意味さえもなかったと思います。イエスは「意味」ということさえも地上に残されなかった。
 イエスは「無」になるということで「意味」さえも残されなかったのですが、ただ一つ、地上の弟子たちに、そして私たちに、示してくださったことがあります。それは、何かと言いますと、「愛」です。キリストは自らを「無」とされ、人間になって、しかも、犯罪人として処刑されました。「意味」もない全くの「無」になることによって、私たちに「愛」を示されました。

神は純粋な愛

 フランスにギュスターヴ・ティボン(1903―2001年)という哲学者がおりました。日本ではシモーヌ・ヴェイユの関連で名前が出てくることはあるのですが、ほとんど無名の方です。ただ、フランス本国ではよく知られていて、尊敬されていた人です。哲学者と言いましたが、実は高等教育を受けたことはなく、お百姓さんとして一生を終えた人です。農業のかたわら、独学で外国語を学び、さまざまな書物を読んで、キリスト教・信仰・哲学について深く、かつ霊性にみちた洞察を得るにいたった神の証し人(びと)です。個人的なことで恐縮ですが、私は36年前に、出版されたばかりのティボンの翻訳本を読みました。それ以来、ティボンは私が最も尊敬し、最も強く憧れる信仰の先輩であり続けています。
 このティボンの言葉から、一つご紹介します。

 「神は愛である。だが、残念なことに! 神は愛以外のなにものでもない。人間たちが神を無視し、神を拒否するのは、この絶望的純粋さのためである。もちろん彼らは愛をのぞんでいる。だが、合金のなかの一要素としてそれをのぞんでいるのだ。たとえば、人間的愛は、若さ、美しさ、健康、富、名誉などといった愛とは無縁の諸要素にかこまれればかこまれるほど、それだけ評価されるものとなる。純粋な状態での愛は、ひとを怖れさせるか、気づかれずに通りすぎてしまう」(山崎庸一郎訳『星の輝きを宿した無知』、みすず書房、237―8頁)。

 この言葉の内容をもう一度確認したいと思います。
 「神は愛である」―これは新約聖書のヨハネの手紙に出てくる有名な言葉です。神は愛なのです。しかし、ティボンは少々皮肉を込めて言います。「残念なことに! 神は愛以外のなにものでもない」。しかし、なぜ「残念なことに!」なのでしょうか。神が愛なら、それは素晴らしいことではないのでしょうか。なぜ、そのことが、「残念」なのでしょうか。この「残念なことに!」という嘆息は、私たち人間一般の気持ちを代弁したものです。人間は、愛を望んではいます。しかし、純粋な愛を望んでいるわけではない。純粋な愛は、人間の関心を惹きません。人間が望む愛は、いろいろ混じり合ったもの―ティボンの言葉を借りれば「合金」ですが―「合金」の中に少しだけ入っている程度の愛なのです。私たち人間が望むのは、純粋の愛では決してなく、「若さ、美しさ、健康、富、名誉などといった愛とは無縁の諸要素」に囲まれた愛です。そして、私たちは、私たちの愛が「若さ、美しさ、健康、富、名誉」といった「愛とは無縁の諸要素」に囲まれていれば囲まれているほど高く評価し、喜びます。純粋な愛である神様のほうは、どうでしょうか。こちらは、「愛とは無縁の諸要素」をもっていませんので、人間はこれを無視し、醜いもの、汚いもの、つまらないもの、「ださい」ものとして軽蔑し、拒否します。人間は輝かしい愛、栄光に満ちた華々しい愛を期待しますが、神の愛は、それとは全く逆の、人間の一切の期待を裏切る愛です。だから、ティボンは神の愛は絶望的に純粋だと言います。私たち人間は「絶望的に純粋な愛」である神を怖れるか、さもなければ、これに全く気づくこともありません。
 「この絶望的に純粋な愛」こそが、まさに今朝の聖書で述べられているキリストです。キリストは徹底的に「無」になられました。そして、犯罪人として処刑されました。地上には何の意味も残されなかった。しかし、全くの「無」になられることで、私たちに、絶望的に純粋な愛を示してくださいました。

マザー・テレサの実践

 この絶望的に純粋な愛を見続けた人がいます。マザー・テレサです。
 マザー・テレサについては、改めてご紹介する必要はないと思います。マザー・テレサはカルカッタで、シスターやブラザーと共に、「貧しい人の中でいちばん貧しい人たち」、「誰からも必要とされず、愛されず、病気で死んで行く人たち」、「ハンセン病患者」や「幼い子供たち」のために働きました。マザー・テレサの遺志を継いだシスターやブラザーは今も、そのような人たちのために働いています。その人たちの傍らにいて、その人たちに仕えています。
 マザー・テレサたちが仕えてきた相手は、社会から捨てられた人びとです。人間社会から「必要なし」の烙印を押された人びとです。キリストは、自らを空しくし、「無」に徹して、このような人びとの仲間になられました。マザー・テレサは、「見捨てられ孤独のうちに死を待つ人びと」や「貧しい人のなかで最も貧しい人びと」をキリストだとして仕えてきました。
 マザー・テレサは言っています。
 「貧しい人に触れる時、わたしたちは実際にキリストのお体に触れているのです。食べ物をあげるのは貧しい人のうちにおられる飢えているキリストに、着物を着せるのは裸のキリストに、住まいをあげるのは家なしのキリストになのです」(半田基子訳『マザー・テレサのことば』、女子パウロ会、44頁)。
 また、「わたしは一対一というやり方を信じています。どのひとりもわたしにとってはキリストで、イエスはひとりだけですから、今という時に接しているそのひとりが、わたしにとって世界でただひとりしかいない人なのです」(前掲書、46頁)とも言っています。
 私たち人間は、充溢した存在のほうにばかり目を向けがちです。ティボンの言葉を借りれば、「若さ、美しさ、健康、富、名誉などといった愛とは無縁の諸要素」にばかり気を取られています。しかし、そこには純粋の愛はありません。むしろネガティブな方向、究極的なネガティブ=「無」の方向にこそ、純粋な愛・キリストは佇んでおられます。現代は、さまざまな情報が飛び交う時代、私たちの気を引く「もの」や「こと」が多すぎる時代です。このような時代にあって、私たち人間に求められているのは、人の注意を惹かず、人に気づかれない「無」、あるいは、そこに目を向けた者を怖れさせる「無」=ケノーシスに目をやり、それとじっくり向き合うことなのではないでしょうか。

2012年6月6日 今出川水曜チャペル・アワー「奨励」記録

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