夕方から始まる
奨励 |
越川 弘英〔こしかわ・ひろひで〕 |
奨励者紹介 |
同志社大学キリスト教文化センター副所長 同志社大学キリスト教文化センター教授 |
研究テーマ |
キリスト教の実践神学(礼拝、宣教、牧会) |
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。
「光あれ。」
こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
(創世記 1章1―5節)
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
(マタイによる福音書 6章25―34節)
聖書の世界では、一日は夕方から始まると考えられていました。正確に言うと、日が暮れ、夜のとばりが降りてきて、空に星が瞬き出し、一番星が光り始め、さらに2番目の星が確認できるようになった時から、一日が始まるということだったようです。お気づきになった方もあると思いますが、最初に読んでもらった創世記の最後に、「夕べがあり、朝があった。第一の日である」(1章5節)というのは、今言ったように一日の始まりが夕方であることを前提にした書き方です。
これはユダヤ人が月の運行に基づく太陰暦を用いていたせいだとも言いますが、どうも私たちには実感が湧かないところがあります。現代の日本人で言えば、ふつう、頭では真夜中の午前0時を境に新しい一日が始まると考えますし、感覚的には朝が来ると新しい一日が始まると感じることが多いのではないでしょうか。
そこには私たちが慣れ親しんでいる文化の違いがあるわけですが、ユージン・ピーターソンというアメリカ人の神学者は、こうした違いを聖書と現代人の間の価値観の違いを象徴するものとして、次のように記しています。
「大部分のアメリカ人にとって、一日は夜明け前の闇を切り裂くような目覚まし時計の音で始まり、それが終わるのは夕暮れではなく、夕暮れよりも何時間かのちの電灯のスイッチを切る時点である。通常、私たちが使う『一日』という言葉の中には、労働の延長時間として用いられる二―三時間を除けば、夜中の時間帯は含まれていない」(『牧会者の神学』越川弘英訳 日本キリスト教団出版局 1997年 90頁)。
「その後、六時間ないし八時間、あるいは一〇時間にわたって、『私』は無意識に眠りの中を漂う。その時間は絶対的に非生産的で、功利的な意味では価値のない時間である」(同)。
「やがて、私は目覚め、元気を取り戻し、精気に満ちてベッドから飛び起き、コーヒーカップを手に取り、仕事を始めるためにドアから駆けだして行く」(同)。
私たちはそうして仕事場に行って、自分の為すべき仕事をバリバリとやり、一日を活動的に、創造的に、生産的に過ごそうとします。その日一日を有意義な一日とするのは私たちの努力であり、私たちの働きであり、私たちの責任です。ピーターソンによれば、朝から晩までという現代人の一日の受けとめ方は、詰まるところ、自分という人間、自分の働きを中心とするものの見方を映し出しているというのです。
神の用意した世界
これに対して、夕方から始まるという考え方には、神を中心とする「神学的な一日の理解」が象徴されているとピーターソンは考えます。
夕方から夜。古代の人間にとっては活動できない時間、恐ろしい闇の時間にも神は働いておられるというのです。創世記にあるように、真の闇であった原初の世界に「光あれ」と命じられたのは神でした。闇の中に光を創造し、夜の次に朝を来たらせ給うのは神であると聖書は語るのです。人間は神が用意してくださった光の中で目覚め、働き、生きるのです。そして私たちが目覚めるその世界というのは、空も海も陸地も、動物も植物も人間自身も、神の愛のわざによって創造されたものであると聖書は語るのです。
ピーターソンは言います。
「私たちは、私たち自身が造り出したわけではない世界の中で目覚め、私たちが受けるに値しない救いの中で目覚めるのである。『夕べ』……神は、私たちの助けなしに、その創造的な一日を始められる。『朝』……神はご自身の始められた仕事を共に喜び、分かち合い、さらにおしすすめていくためのわざへと私たちを招かれる」(同91頁)。
言わば、すでに神が始められた世界の中で、神が進めておられる仕事に参加するために、私たちは目覚め、起き出し、出ていくのです。私たちが生きるのは単なる自己実現のためではなく、神と共同の目的を分かち合い、神と共に働くためであるというのです。
天地創造という神話は、この世界が人間のものではなく、神のものであるということを告げています。人間はこの世界に生きることを許されています。しかしこの世界の持ち主ではありません。人間はこの世界を治めることを神から委託されています。しかしそれはこの世界を好き勝手に蹂躙していいということではありません。人間は、神が創造され、神から生きることを許されたこの世界にあって、神と共に、良く生きていくことが求められている。これが聖書の基本的な教えです。
夕方はそういう意味で神の働きが始まることを告げる時なのです。そして人間にとっては私たちの働きを終える時でもあります。
日が暮れ、夜のとばりが降りてきて、空に星が瞬き出すころ、人は家に帰り、眠りに就きます。「キリスト教における正しい眠り方」、「神学的に正しい睡眠」があるとすれば、それはこのような信仰のもとですべてを神に委ねて眠るという眠り方のことです。
もう一度、ピーターソンを引用します。
「私が眠っている数時間のうちに、神はどのような備えをしてくださるのだろうか?(中略)私はしばしの間、神のわざをじゃましないために眠りにつく。(中略)私たちが寝ている間に、人間の生産力や処理能力をはるかに越えた壮大な驚くべき営みが進行している。月は季節を刻み、ライオンは獲物をねらって吠え、ミミズは大地を耕し、星々はそれぞれの軌道上を進み、蛋白質の働きによって私たちの筋肉の力は回復され、目覚めていた時にはつまらないゴシップや策謀のかげに隠されていた、深い健全な思考が私たちの脳の中に回復させられる。私たちのわざは神のわざのコンテキストの中に位置づけられている。人間の努力はそれ自体において賞賛に値する尊いものだというわけではなく、それが神の恵みと祝福のリズムに包まれることによって賞賛され、尊ばれるものとなるのである」(同92頁)。
私たちは神の創造された世界の中で眠っている。私たちが眠っている時も目覚める時も、そこに神の守りがあり、神の恵みが私たちを包んでいる。これがキリスト教の基本的な世界観であり、その世界の中ですべての人間は生かされて生きていると信じるのです。
思い悩むな
今日、お読みいただいたもうひとつの聖書箇所、新約聖書のマタイによる福音書のなかで、イエス・キリストが語っていることも、これと同じことであると言えるでしょう。「空の鳥」「野の花」に託して神の限りない恵みを語るこの教えは、多くの人から愛されてきた教えです。
イエス・キリストは言います。
「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」(マタイによる福音書6章25節)。
勘違いしないでほしいのですが、この言葉は、いろいろな食べ物のなかから今晩のメニューを決めるとか、自分の気に入った服を選ぶとかいうことを問題にしているわけではありません。これは今日明日の食べ物に事欠く生活を送っている人びと、身に着ける服はせいぜい一着しか持っていない人びとに向けて語られている言葉です。
生きるためには食べる物、飲む物が必要であり、着る物も、住む場所も、さまざまなものが必要です。それは昔も今も変わりません。それは十分に分かっています。だから誰もがそのことで思い悩むのです。
自分ひとりが悩むばかりではありません。家族がいれば、親は幼い子どもたちのために、思い悩まなければなりません。年老いた親を養うために子どもが思い悩むということもあったでしょう。若い人びとであっても、これから先の人生を考える時、どうしたら食べていけるか、飲んでいけるか、生活していけるかを思い悩みます。
聖書の世界の人びとは、神が私たちを守っていてくださると信じました。しかし世界の中にさまざまな問題があり、苦しみがあり、食べること飲むことから始まるさまざまな思い悩みがあることもよく知っていました。聖書のなかの人びとはそんなふうに矛盾し葛藤する現実のなかで、神を信じ、人生を生きているのです。
イエス・キリストがこの教えのなかで語っている「思い悩むな」という命令はなかなか難しい命令です。「思い悩むな」と言われて、「はい、わかりました」と答えられるようなら、それはたいした悩みではないのです。「思い悩むな」と言われても、それでも悩まなければならないほどの悩みだから、人は悩み苦しむのです。そういう意味では、「思い悩むな」というイエスの言葉は実に鈍感な、そしてある意味、上から目線の傲慢な命令であるようにも感じられます。
しかし人びとがそのようなイエスの言葉を受け入れたのは、おそらくイエス自身が彼の言葉を聞く人びとと同じように、生きる上でのさまざまな悩みを味わっていた人だからだったのではないでしょうか。イエスもその弟子たちも、食べること飲むことで苦労がありました。家族や周囲の人びとから理解されず、批判されたり、攻撃されたこともありました。最後にイエスは十字架につけられて殺されてしまいますが、そうした現象だけから見れば、彼の人生は決して幸福ではなかったし、この世的な意味では成功したわけでありません。
そういったイエスが語った言葉だったからこそ、人びとは「思い悩むな」という言葉に(納得できなかったかも知れないけれど)耳を傾け心を傾けたのではないかと思うのです。言葉というものは、同じ言葉であっても、誰がそれを語るかによって違う力を発揮することがあるのです。
その日の苦労は、その日だけで十分である
「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」。
「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」(マタイによる福音書6章26―30節)。
よく考えてみればかなりむちゃくちゃな言葉です。人間は鳥でもなければ、草花でもありません。しかしそのむちゃくちゃな言葉に力があるとすれば、それはこの言葉を語ったイエスが本気でそのように信じ、そのように生きた人だったからでしょう。自らも「思い悩む」立場にあったイエス、そして誰よりも人びとの苦しみや悲しみに思いを寄せ、人間の持っている弱さや愚かさを知り、思い悩まざるをえない人間の生身の姿に共感していたイエスだったからこそ、このようなむちゃくちゃな言葉にも真実があり、「思い悩むな」という言葉が人びとの心に届いたのだと思います。
「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイによる福音書6章34節)。
日々、いやというほどの「思い悩み」が私たちの周りを取り巻いている現実があるからこそ、それをよく知っているイエスはこのように言うのです。
日が暮れ、夜のとばりが降りてきて、空に星が瞬き出す時、神の時が始まります。私たちがその日の仕事を終える時、神がそのわざを開始されます。まとわりつく数々の苦しみや悲しみや思い悩みを抱いたまま私たちが眠りに就く時に、神の愛のわざが始まるのです。神のわざは私たちの知らない間に進んでおり、次の朝、私たちは神の愛によって備えられた世界の中で目覚めるのです。だからイエスは、「思い悩むな」と言い、「その日の苦労は、その日だけで十分である」と言うのです。
まもなく秋学期の終わり、そして卒業の季節を迎えますが、今日はとりわけ4回生以上の皆さんに、このイエスの言葉、聖書の言葉を贈らせていただきたいと思います。
若い皆さんがこれからの人生において「思い悩む」ことは数限りなく起こってくることと思います。私たちの人生には最後まで「思い悩む」ことがつきまとうのかも知れません。しかし私たちが「思い悩む」時にも神のわざはすでに始まっていて、私たちの「思い悩み」を包み込んでいてくださいます。だから、「思い悩むな」、「その日の苦労は、その日だけで十分である」、あなたの人生を神に委ねなさいというイエスの言葉を心に留めておいていただきたいと思うのです。
2014年1月14日 今出川火曜チャペル・アワー「奨励」記録
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