奨励

なぜ自分を愛せないのか?
~マザー・テレサに学ぶ自己愛と隣人愛~

奨励 片柳 弘史〔かたやなぎ・ひろし〕
奨励者紹介 カトリック六甲教会助任司祭

 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

(マタイによる福音書 22章34―40節)

 「隣人を自分のように愛しなさい」。この言葉を忠実に守って生きたキリスト者の一人に、マザー・テレサがいます。頭で理解するのは簡単だけれども、なかなか実行に移すことができないこの掟を実践していくための手がかりを、マザー・テレサの言葉のなかに探してみることにしましょう。

イエスを愛する喜び

 わたしは1994年、大学を卒業してすぐマザー・テレサが住むインド、カルカッタを訪ね、彼女のもとで1年あまりボランティアとして働いていたことがあります。初めてマザーと出会ったときの喜びは、今でも忘れることがありません。リュックサックを背負って、突然彼女の修道院を訪れたわたしを、マザーは、まるで久しぶりに帰ってきた孫を迎えるかのように優しく迎えてくれました。どうしてこんなに暖かく迎えてもらえるのかと、かえって不思議に思うくらいでした。マザーと出会った人たちは、みな口々にこう言います。
「わたしこそ、マザーから世界中で一番愛されている」。
 わたしたちが感じたのは、つまり、「今まで、誰かからこんなに温かく迎え入れられたことがない」ということでした。それが、「マザーから、世界中の誰よりも愛された」という体験として心に刻まれたということでしょう。マザーはよく、「わたしにとっては、そのとき目の前にいるその人こそイエスであり、わたしにとってのすべてです」と言っていました。王様や大統領であろうが、スラム街の貧しい人たちであろうが、あるいは日本からリュックを背負ってやってきた若者であろうが、マザーは、まるでイエス・キリストを出迎えるかのように、自分のすべてを捧げ尽くすほどの愛で出迎えたのです。
 なぜ、マザーはそれほどまでにイエスを愛し、人びとを愛することができたのでしょう。その秘訣を尋ねられたとき、マザーがいつも言っていたのが次の言葉です。

 イエスを愛する喜びをいつもこころに持ち続けましょう。そしてその喜びを、わたしたちが出会うすべての人々と分かち合いましょう。(片柳弘史編・訳『愛する子どもたちへ マザー・テレサの遺言』ドン・ボスコ社 2001年 40頁)

 つまり、イエスを愛する喜び、イエスを愛し、イエスから愛される喜びこそが、マザーからすべての人に向かってあふれ出した愛の喜びの源だったということです。マザーの愛は、マザーの心からあふれ出した神の愛の喜びだったのです。
 この言葉は、今日の聖書の言葉と深く響きあっているように思います。もし人びとと喜びを分かち合いたいなら、喜んで人びとを受け入れ、愛したいなら、まず「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(37節)という掟のとおり、神を愛する必要があるのです。言うまでもないことですが、神はどんなときでもわたしたちに無限の愛を注いでくださっています。その愛に気づき、その愛にこたえて神を愛することが、わたしたちの使命なのです。
 神の愛にこたえて神を愛するとき、神とわたしたちのあいだに愛の交わりが生まれます。そして、愛の交わりからは無限の喜びがあふれ出すのです。「神は、わたしたちを愛してくださっている」というその喜びを人びとと分かち合う、それが、隣人を愛するということです。「隣人を自分のように愛しなさい」というのは、神から愛されている自分を愛するのと同じくらい隣人を愛しなさい、その喜びを人びとと分かち合いなさいということなのです。

悪魔の罠

 ですが、神がどんなにわたしたちを愛してくださっていても、わたしたちは自分からその愛を拒んでしまうことがあります。それは、悪魔がしかけた罠だとマザーは言います。マザーの霊的遺言状とも言われる「ベナレスからの手紙」のなかで、マザーは次のように言っています。

 イエスとの、個人的なまじわりを妨げるものすべてに注意しなさい。悪魔は人生の痛みや、わたしたち自身のあやまちを利用しようとしています。イエスが自分を愛しているなんてありえないという考えが、あなたたちにまさに忍びよろうとしています。(同18頁)

 神の御旨(みむね)である隣人愛の掟の実行を阻むため、悪魔はまず、わたしたちが神の愛を受け入れられないように仕向けます。神からの愛を受け入れられなければ自分を愛することもできず、自分を愛することができなければ、「隣人を自分のように愛する」こともできなくなるからです。
 そのときに悪魔が利用するのは、わたしたちのプライドや執着です。大きな困難に直面したり、何をやってもうまくいかないと感じたりするとき、わたしたちは「もうだめだ。わたしは神から愛されるに値しない」と思ってしまいがちなのです。そんなわたしたちにマザーは次のように語りかけます。

 イエスはあなたたちに渇いているのです。自分は愛に値しないと思っているときですら、イエスはあなたたちを愛しているのです。もし、ほかの人々から受け入れられないときも、自分で自分を受け入れられないときでも、イエスはいつでもあなたたちを受け入れるのです。(同 18―19頁)

 わたしたちがどれほど惨めな状況に置かれ、不完全さをさらけ出したとしても、イエスの愛は決して変わることがありません。人から厳しく批判され、「わたしはだめな人間だ」と自分で思うときでさえ、イエスはわたしたちを愛しているということです。
 有名な「放蕩息子のたとえ」(ルカによる福音書15章)を思い出すといいでしょう。惨めな姿に落ちぶれ、「自分はもう息子と呼ばれるに値しない」とまで思いつめた息子の帰りを、父は来る日も来る日も道に出て待ち続けていました。その父と同じ思いで、イエスはわたしたちの帰りを待ちわびているのです。いつも変わらない愛をわたしたちに注ぎながら、わたしたちがその愛に気づき、その愛に応えるのを待ちわびているのです。それが、「イエスはあなたたちに渇いている」という言葉の意味です。

 イエスから愛されるために自分と違ったものになる必要はありません。信じなさい、あなたたちはイエスにとってかけがえのないものなのです。(同 19頁)

 「わたしは神の愛に値しない」という言葉の裏側には、「もっと優れた人間にならなければ、神は愛してくれない」という思い込みがあります。この思い込みこそが、悪魔がわたしたちの心に巧妙にすべりこませた罠だと言っていいでしょう。競争社会と呼ばれる現代社会には、「優れていなければ人から評価されない。幸せになることができない」という価値観が蔓延しています。それがいつの間にかわたしたちの心の深くに染み込み、神と自分の関係を考えるときにも顔を出すようになるのです。
 「いい会社に入らなければだめ。業績を上げなければだめ。結婚しなければだめ」。この世がそのような考え方をするのだから、神もきっとそのようにわたしたちを評価するに違いない。わたしたちは心のどこかでそう思い込み、困難に直面したり、大きな失敗をしたりしたとき自分を責め始めます。ところが、それは神の愛とは全く正反対のことなのです。神は、どんなときでもわたしたちをありのままで、無条件に愛してくださる方なのです。イエスから愛されるために、自分と違ったものになる必要などありません。今の自分よりもっと優れた者になる必要など、どこにもないのです。

 あなたが苦しんでいることを、すべてイエスの足元に運びなさい。ありのままでイエスから愛されるためには、ただこころを開くだけでいいのです。残りのことはイエスがしてくれます。(同 19頁)

 「もっと優れた人間にならなければ」ともがくとき、わたしたちの心に大きな苦しみが生まれます。自分の力で自分を神の愛に値する者にしようともがき続ける限り、わたしたちの苦しみが止むことはないでしょう。
 この苦しみから抜け出す唯一の道は、自分は不完全な罪びとなのだと潔く認め、「こころを開いて」ありのままの弱い自分をイエスに差し出すことです。ありのままの弱い自分を恥じ、もっと優れた人間であるかのように振る舞ったり、恥じることなく神の前に出られるようにもっと優れた人間になろうと努力したりする必要などありません。ただ、ありのままの弱い自分を、ありのままイエスの前に差し出せばいいのです。
 そうすれば、「残りのこと」はすべてイエスがしてくださる、とマザーは言います。イエスは、わたしたちを大きな愛で包み込んで傷を癒し、汚れを清め、新しい勇気と希望、生きる力を与えてくださるでしょう。

2013年6月5日 今出川水曜チャペル・アワー「奨励」記録

[ 閉じる ]