奨励

真理之囚人コソ真ニ自由ノ人

野本 真也

同志社理事長
同志社大学神学部教授
日本キリスト教団正教師

奨励者紹介〔のもと・しんや〕 〔研究テーマ〕
聖書原典のキーワードをコンピュータで検索し、隠された意味を探る

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」

(ヨハネによる福音書 八章三一―三六節)


同志社の「自由」とは?

 「同志社ナビ」のなかに「同志社受験生ナビ」というのがあり、「同志社受験生のためのQ&A」にこんなことが書かれていました。「学生の目から見て、同志社のいいところと悪いところってどんなところですか?」。この質問に対して、答えはこう書かれていました。

 「・・・まず、まだまだ『自由』な大学である点です。授業、とりわけ大教室の授業は出席してなくても単位取得可能な授業すらあります。また、大学側があまり干渉的ではありません。『自由』な校風においては、学生間の競争意識が皆無に近く、その分、どんな学生でも何となく居場所が見つかり、学生にとってはかなり居心地が良いのです。しかし、『自由』の裏側には『責任』が問われていることも事実です。にもかかわらず、『自由』を履き違えた学生が多いことも事実で、・・・モラルのなっていない実態すらあります。そのような状態を救うのは、同志社を厳しい目で見ている学生が多い事実です。そのような学生には『愛校心』がどこかにあるためです。このようなことから、一言でまとめれば、いい意味でも、悪い意味でも『自由』な大学である、というところでしょうか。」

 たしかに、同志社の校風は「自由」にあります。このような同志社の校風は、いったいどこから来ているのでしょうか。それはもちろん、同志社の創立者新島襄の教育観からです。新島襄は晩年、自分の生涯の目的は、「自由教育、自治教会、両者併行、国家万歳」であると弟子たちに書き送っています。新島襄の教育観は、一言で言えば「自由教育」です。しかし、その「自由」を新島はどのように理解していたのでしょうか。また、それを目指した教育観は、いったいどこで、どのようにして養われたのでしょうか。

新島が体得した「自由」の源

 新島は一八六四年六月函館から国禁を犯して脱国しますが、その前の年、二十一歳のとき、友人からアメリカ合衆国の歴史や政治、経済、文化等を書いた『聯邦志略』や、当時は禁じられていたキリスト教の書物や漢訳の聖書を借りて読んで、自由の大切さを知り、また自由への強い憧れを抱いていました。このことは、一八六五年十月に書いた「密航理由書」の中で、新島が当時を振り返って「なぜ幕府は我々を自由にしないのか。なぜ我々を籠の鳥か袋の鼠のようにしておくのか」と述べていることからも伺い知ることができます。

 新島は一八六五年七月ボストンに着きましたが、そこで彼を迎え入れ、親切に世話をしてくれたのは、ニューイングランドのピューリタンの人びとでした。ピューリタンは、一六二〇年、メイフラワー号に乗ってニューイングランドにやってきたピルグリム・ファーザーズの伝統に生きる人びとです。彼らは英国の国王や国教会からの迫害を逃れ、信仰の自由を求めて大西洋をわたり、聖書の教えに基づく共和国の建設をめざした先祖たちの自由の精神、デモクラシーの精神に充ち満ちていました。新島は彼らと出会い、彼らの営む学校や教会で生活することで、自由を大切にしながら生きるとはどういうことかを体験したのです。

 しかも彼らのなかには、個々の教会がいかなる信仰的・世俗的な権威からも自由、いかなる教会的・教理的信条にも拘束されない自治と自由を尊重するという、いわゆる「会衆派」の教会に属している人たちが多かったのです。そしてまた、新島襄の学んだ学校、フィリップス・アカデミーは一七七八年、アーモスト大学は一八二一年、いずれも会衆派教会の子弟教育のために設立された学校であり、アンドーヴァー神学校は、一八〇七年に創立された会衆派の最も古い神学校です。いずれも、ピューリタンの特質である敬虔な信仰、自由、愛、平等、正義などキリスト教的徳育を基本とした人格教育を目指していました。これらの学校で、新島は教師と学生が日常の人間的な交わりや学問的な研鑽をしていくなかで、お互いを尊重し合い、人格や思想の感化を受けながら、幅の広いカリキュラムで多様な分野の学問を学ぶことによって、真の自由教育とは何たるかを体得したのです。

 このように、新島の自由教育という発想は、彼が出会った人びとや彼の受けた教育、そして欧米の教育視察などで得た情報など、じつに多様な経験に根ざしていると言えます。新島はのちに、「耶蘇世ニ降リ自由顕(ル)、耶蘇教ナキ国ハ自由ナシ」とまで言い切っていますが(『新島襄全集』2 三八九頁)、このように新島は当時の西欧諸国の自由の源がキリスト教にあることを身をもって経験したのです。

 しかし、それらの経験をもとに、自由教育が新島の明確な目的意識となっていく直接的な契機となったのは、ほかでもありません、聖書そのものです。

 旧約聖書には、エジプトの奴隷であったイスラエルの民が、どのようにして自由を得たかが物語られています。新島がニューイングランドで出会ったピューリタンの先祖たちは、自分たちの生き方を聖書に照らし合わせて理解し、実践した人びとでした。彼らは、エジプトの奴隷であったイスラエルの人びとが荒れ野を越えて自由の地に入ったことを、まさに自分たちの生き方のモデルとして受け止め、大西洋を荒れ野に見立てて、自由の地に渡った人たちでした。ですから、聖書は、まさに人びとを自由へと導くモデルを描いた書にほかならなかったのです。

「真理はあなたたちを自由にする」

 また、新約聖書のヨハネによる福音書には、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(八章三二節)というキリストの言葉が伝えられています。

 この言葉は、明徳館の入り口のところにレリーフがありますが、そこにラテン語で‘veritas liberabit vos’と刻まれています。また、戦後まもなくのことですが、一九四八年(昭和二十三年)、国立国会図書館法が制定されたとき、その基本理念を示す前文に「真理がわれらを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和に寄与することを使命として」いるという文章があります。「あなたたち」が「われら」になっていますが、これについてはこの法律の起草にかかわった羽仁五郎氏が、これは「聖書の言葉だが、あるいは聖書よりもっと古い、ヘブライ時代の言葉だろう。僕がヨーロッパで勉強していた頃、チュービンゲンだった か、大学図書館の玄関の上のところに“wahrheit macht man frei”という言葉が刻んであった」と書き残しているそうです(稲村徹元・高木浩子「真理がわれらを自由にする」文献考『参考書誌研究』三十五号 一九八九年 一-七頁)。しかし、国会図書館の東京本館の目録ホールには、日本語は「われら」ですが、ギリシャ語では聖書のとおり「あなたたち」と刻まれているそうです。

 このように、このイエスの言葉はラテン語の格言ともなっているわけですが、そうしますと、この「真理」とは、いったいどういう意味なのかが問題となってまいります。しかし今は、哲学的な真理の厳密な定義の問題はさておくとして、一般に「真理」といえば、客観的に誰もが本当だと認めることができることを指していると言えるでしょう。理性で認識することができる真理です。ギリシャ語で真理はアレーセイアと言いますが、これはもともと「覆われていない」という意味です。皆さんも、大学で学んでいる学問はこの意味での真理を探求する営みだと理解しておられることでしょう。

 ヨハネによる福音書もこのギリシャ語を使っているのですが、しかしヨハネによる福音書全体の文脈や思想を調べてみると、これとは違った意味合いを含んでいることが分かります。

 ヨハネによる福音書一八章三七節で、十字架につけられる前に逮捕されたイエスが、ポンテオ・ピラトの尋問に対して、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と言うと、ポンテオ・ピラトがイエスに「真理とは何か」と尋ねる場面があります。しかしイエスは何も答えていません。

 では、その答えはどこにあるのか。ヨハネによる福音書一四章六節です。「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」この言葉は、このチャペルの、この聖書台の正面に漢文で「我即道也 我即真也 我即命也」と書かれています。

神の真理と真の自由の探求

 なぜイエスが真理なのでしょうか。それはイエスによって神の真理が明らかにされたからです。では、神の真理とは何か。それは理性で認識できる真理だけでなく、信仰によってはじめて認識することのできる真理をも包括しています。旧約聖書によれば、神は「真理の神」(詩編三一編六節)であり、「恵みと真理」(慈しみとまこと)(詩編八六編一五節)なのです。エメトというヘブライ語なのですが、これは祈りのあとに唱えるアーメン(確かである、信頼できる)と同じ語根の語です。そして、ヨハネによる福音書は、この「恵みと真理」とが「イエスを通して現れた」(一章一七節)のであり、その意味で、イエスが真理だと語っているのです。このように、主体にかかわってはじめて明らかに認識される真理をヘブライ的真理と呼ぶことがあります。

 ですから、「自由にする」という意味も、単にギリシャやローマの奴隷たちの解放という社会的な次元だけでなく、旧約聖書の律法や罪の束縛からの自由という意味を含んでいるのです。ヨハネによる福音書八章三四節の「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」というイエスの言葉がこの意味を明確に表しています。そしてそれに続いて、「もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」(三六節)と、真理であるイエスがあなたたちを自由にするのだと語っているのです。

 では、なぜ、なんのために真理であるイエスは自由をもたらすのか。それは、ヨハネによる福音書のほかの箇所に書かれています。たとえば、イエスの祈りの言葉には、「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます」(一七章一七節以下)とあり、さらにイエスは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(一五章一二節以下)と語り、イエスが自分自身をささげた愛に基づいて、互いに愛し合うことこそが真理によって自由になることなのだと、愛への自由の大切さを説いているのです。

 エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』(東京創元社)のなかで、自由には「~からの自由」と「~への自由」があり、「愛への自由」が重要だと述べていますが、ヨハネによる福音書も、そして聖書は全体として、このことを明確に語っているのです。

 新島襄は、「真理之囚人」という題の説教をしたことが、残された資料からわかります。そして、そこには「真理之囚人コソ真ニ自由ノ人ナレ」と書かれています(『新島襄全集』2 四五一頁)。「真理之囚人」という表現は「真理」という題の説教断片にも出てきますが、そこでは、真理に全く身をゆだねて、真理を活用することが大切だとして、それは「良心ノ働キヲ活発ニス、小事ト雖(も)真理ニ背ケバ人ヲ弱カ(ら)シム」と書かれています。

 また「キリスト真理ノ証ヲ為シ真理ノ国ヲ世ニ起セリ」という説教では、「真理ヲ以(て)吾人ヲ悪魔ノ手ヨリ脱カレシメ自由ノ民トナシ天国ノ民トナサン為・・・」(『新島襄全集』2 三二五頁)と語り、「愛ハ真理ノ基礎ナリ」(三二七頁)という言葉で終わっています。

 ですから、新島が「真理」と言うとき、それは一般的な学問上の真理にとどまらず、聖書が語っている神の真理、キリストという真理を意味していることは明らかではないでしょうか。

 新島にとって「学問ノミニ走ラセ信仰ノ道其ノ脳中ニ働カサレハ学問ハアブナイ」(『新島襄全集』2 四〇四頁)のであり、「自由トカ、真理ヲ我儘ニスル世」の中にあっては「霊ノ学問」(『新島襄全集』2 三八五頁)が必要なのです。

 いよいよ新学期が始まりましたが、同志社大学にはこのような新島襄の志に基づいて「霊ノ学問」がいろいろと用意されています。どうか、一般的な意味での学問の真理探究にとどまらず、キリストという真理をも探ね求め、「真理之囚人」となり、「真ノ自由ノ人」となろうではありませんか。

二〇〇五年四月十二日 同志社スピリット・ウィーク
火曜チャペル・アワー「奨励」記録

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