講演

金森通倫(みちとも)の自伝から学ぶこと

講演 北垣 宗治〔きたがき・むねはる〕
講師紹介 同志社大学名誉教授
敬和学園大学元学長

金森通倫とその妻

 現役のころ、京田辺校地におきまして2年間だけ教える機会がありました。このキャンパスはそのころからすると見違えるようになっていまして、同志社大学の京田辺校地は日本で最も美しいキャンパスの一つであると確信しております。すばらしいキャンパスで学ぶことができる皆さんを羨ましく思います。
 今年の同志社スピリット・ウィークで、どういうお話をしようかと考えていましたところ、たまたま熊本バンドの一人である金森通倫という人に興味をもちまして、勉強しているものですから、皆さんにもその一端をお話ししてみたいと思います。資料として『日本キリスト教歴史大事典』から金森通倫の項目を使わせていただきたいと思います。実はここ何日かかけて金森通倫の書いた英文の自叙伝を読んでいますが、これからお話をする出来事が非常にビビッドに書かれていました。彼はすばらしい女性と結婚しました。神戸女学院の第一期生だった、岡山出身の小寿(こひさ)という女性です。「妻・小寿の没後、信仰へ回帰して組合教会に復帰し」とあります。小寿さんと金森は9人の子どもに恵まれました。4人の男の子と5人の女の子です。9人は非常によい子らであったようです。長男は金森太郎。次男は金森次郎。侍の家ではそういう名前のつけ方をいたします。八幡太郎義家、それは長男。熊谷次郎直実、2番目の男の子です。金森は自分の子の名前をつける際に太郎、次郎、五郎、九郎とつけました。太郎は官立大学を出て役人になり、県知事も務めました。太郎の娘、和子さんは鳥取の石破二朗と結婚しました。石破二朗は鳥取県知事を務めた人で、後に日本政府の自治大臣もしておりました。この石破夫妻の息子が自民党の幹事長、石破茂氏です。集団的自衛権のことで毎日のようにテレビに出ています。石破茂氏の曽祖父が金森通倫にあたるわけです。石破茂氏は鳥取教会で洗礼を受けたクリスチャンです。クリスチャンの立場からすると集団的自衛権に関しての解釈、安倍総理を助けて頑張っている、あの生き方はどうかと思う人もいますが、それは別の問題であります。

妻の死に永遠を見る

 金森通倫の25年連れ添った奥さんが、ある日、突如として亡くなる。その場面を電車の中で読んでおりました。何日間か病床にあった小寿さんを金森は病床に付き添って看病していて、ある瞬間に小寿さんは痙攣してそのまま息絶えた。そのことに彼は感銘を受けたと書いています。今まで生きてニコニコ笑っていた人が、次の瞬間にものを言わない、心臓も止まる、だんだんと体温が冷えていく。それを見て、一体、人間の命は何だろうと考えさせられた。そしてその時の金森通倫の感想は「結局、自分は妻の死の瞬間において永遠というものを垣間見たのである」と言っています。この本は英語の本ですが、永遠はEternity、永遠を私は覗き見た。その永遠に人間が直面するときには、この世的な考え方は全部捨て去ってしまう。死にかかっている少女がどれほどのダイヤモンドを見せられて「お前にあげるよ」と言っても彼女は喜ばないだろう。この世とおさらばする瞬間にはこの世的なものは一切、価値を失うのだ。それが永遠というものの特色なのだと悟ったと金森通倫は書いています。
 Sub specie aeternitatisこれはラテン語です。「永遠の相のもとに」と訳され、それは哲学的な主題でもあります。永遠というものを一つの物差しとして考えるとき、自分たちが、この世的に生きている価値観は変化いたします。私たちはこの世に生きていると快適さを追求し、お金があればそれだけ快適さも増すわけですから、どうしてもお金に執着していきます。けれども死の瞬間が訪れると、いくらお金があってもそれは何の役にも立たない。お金を持ってあの世に行くことはできないのです。「キリスト教とは何か」、これがこのクラスの主題であると聞きましたが、西洋のキリスト教の歴史を繙(ひもと)いてみると、永遠の相のもとにおいてものを見る見方をキリスト教は教えてくれる、こういうふうに私は金森の自伝を読んで感じました。キリスト教が大事にしているのは聖書ですが、聖書のなかに、目に見えるものでなく、目に見えないものを大事にするということを使徒パウロが言っている箇所があります。目に見えるものはこの世的であり、一時的なのです。しかし目に見えないものが永遠の相のもとにはあるわけです。キリスト教は無限に目に見えないものを大事にします。そのことを前置きにしてお話を進めていきたいと思います。
 金森通倫は、同志社の大先輩です。一期生で、1879年の卒業生です。1879年は同志社がスタートして4年、その年に15人の学生が新島校長の手から卒業証書を受け取り巣立っていきました。たまたまその15人は全員、熊本からやって来た青年たちでした。関西の人は一人もいませんでした。同志社は熊本と非常に関係が深いのです。ラーネッドという宣教師がいました。京田辺キャンパスには彼の名前をつけたラーネッド記念図書館があります。そのラーネッド先生は50年も宣教師として初期の同志社で教えた人です。同志社は熊本から来た熊本バンドといわれる青年たちの同志社英学校入学で始まるというのがラーネッド先生の意見でした。傾聴すべき意見だと思います。

金森の略歴

 金森通倫を人びとは金森ツウリンと言っています。間違いではありません。しかし金森の英語のサインは、Paul M. Kanamoriと、ミドルネームはMです。自叙伝のなかで、聖書に出てくる使徒パウロからPaulという名前を採用したとあります。つまり自分のクリスチャンネームにPaulを選んだ。それは熊本洋学校の先生であるL・L・ジェーンズから使徒パウロの生き方を聴いて感激して「このなかで使徒パウロのような仕事をする人がいないか」とジェーンズが言ったとき、「私がそれをやります」と答えたのが金森通倫だったそうです。それでPaulという名前を採用したと自分で書いています。その次のM、通はミチと読みますが、倫をどう読むか。杉井六郎先生は同志社大学人文科学研究所教授を務めた、初期の同志社や新島、徳富蘇峰に詳しい方で、その先生が「みちとも」という読み方を提案して以来、金森ミチトモできています。金森自身が自分の名前をミチトモと言っている箇所に出会ったことはありませんが、Paul Mとあるから、多分「ミチ」までは正しいですが、倫を「トモ」と読めるかどうか、普通は「ミチ」と読みますが「ミチミチ」ではおかしいので、杉井先生は「ミチトモ」と読ませたのでしょう。
 金森は1857年10月2日(安政4年8月15日)に生まれ、亡くなったのは1945年(昭和20年)3月4日、日本が戦争に負けた年です。金森は88歳まで長生きしました。熊本から来た人びと、同志社英学校の大先輩には長生きの人が多かった。一番長生きした人は徳富蘇峰で94歳まで生きました。次が金森通倫で88歳。小崎弘道や海老名弾正も80代まで生きました。80歳過ぎても元気な人は何らかの方法で体を大事にしていると思います。金森通倫の場合はどうしていたか。彼は毎日、夜中1時に起きて、布で自分の体を1時間かけてゴシゴシ擦る。それから自分で朝食を準備して、菜食主義者でしたから肉を食べないで野菜を主に食べるという生き方をしていました。その後、本を読んだり、書いたりして、夕方になって太陽が沈むころには寝るという生き方をしていた人であります。

熊本洋学校のジェーンズ

 明治維新のとき熊本藩は、薩摩や長州に後れをとりました。そこで熊本藩の殿様、細川家を補佐していた上級武士たちはどうやって薩摩、長州に追い越されたものを埋め合わせるか、それにはまず藩の子弟を教育する必要があるということで熊本に洋学校を造ったのです。しかし、自叙伝をよく読んでみると熊本藩は最初から洋学校を造るつもりはなかった。熊本藩の戦力を高めるために兵学校、または士官学校、武士の集団をリードする士官を養成する軍事学校を造ろうとしていたようです。そこでアメリカから教官を迎えることにして、責任者たちはぜひ軍人を回してほしいと長崎にいたフルベッキという宣教師にお願いに行った。フルベッキは熊本藩からの願いを本国に伝えて、探した結果、ジェーンズというアメリカ陸軍の砲兵大尉が推薦されたわけです。ジェーンズは南北戦争にも出ていて、陸軍士官学校出身でもある。士官学校で教官をした経験がある。まさに熊本藩の要求にぴったりの人物であるとしてジェーンズが選ばれました。ジェーンズは最初、軍人の養成をするつもりで来たのです。ところが横浜に着いたころ、明治初期の日本政府は熊本に軍事学校を造ってはならないと禁止命令を出した。当時、藩に軍事学校を造ろうという動きはあったのです。現に沼津には沼津兵学校ができました。軍人を指導する士官を養成するのは日本国自体がやるべきであり、各藩がそんなことをやっては将来また日本で内乱が起こるかもしれない。日本政府が熊本に軍事学校を造ることを禁止する決断をしたのは正しかったと思います。熊本藩はせっかくアメリカからジェーンズという教官を呼んでいるのに、もういい、帰ってください、とは言えませんでした。それで軍事的なことではなく、一般の学問を教えてくださいと頼んだ。ジェーンズはそれを引き受けた。彼は自信があったのです。彼は日本語を使わず英語オンリーで熊本の青年たちを教えました。熊本藩は誰でも入学できるのではなく、試験をして合格した者だけを100人ほど選んで熊本洋学校の生徒にしました。そこにジェーンズ先生が来たのです。
 ジェーンズはどうやって日本の青年に教えるか、いろいろ考えた末、英語でいくと決心しました。熊本藩は通訳を用意し、ジェーンズは英語でやるだろうから通訳を通して生徒に教えることを考えていたのです。ジェーンズは通訳はいらないと、直接すべてを英語で教えることを選んだわけです。これは大事なことだと思います。ABCから全部英語で教えたそうです。最初の1年間は先生が何を言っているのかよく分からなかった。でも毎日のように顔を合わせて単語を教え、発音を矯正してやっているうちに、彼らは熊本の秀才ですから、だんだんと通じるようになって3年目には立派にジェーンズの授業を英語で聴くことができた。これはダイレクト・メソッド、英語教授法の典型です。明治4年に熊本ではジェーンズによるダイレクト・メソッドを実施していた。ジェーンズはさらにこういう工夫をしています。机の並べ方を成績順にする。一つの質問をして最初の人が答えられない、その人はビリの席に座らされる、ネクスト、ネクストとやっていって正解すると席順が前にくる。毎日がそういう競争のような教室にしたわけです。宝塚歌劇団でも毎日成績によって席順が変わると聞いていますが、それをやったわけです。熊本の秀才たちは我も我もと負けん気の強い連中が多いので非常に熾烈な競争が起こってくる。あいつには負けたくないという気持ちがあったのです。そしてこの方法が成功して、3年くらいたつと、どの科目では誰が1番で誰が2番、誰が3番と新聞に載る。その新聞が残っています。熊本洋学校における科目ごとの成績順が新聞に載っています。金森通倫は大変成績が良かったのですが、秀才たちのうちで頭角を現したのは山崎為徳という人です。

山崎為徳

 彼は熊本の青年ではなく東北の岩手県水沢の出身です。なぜ水沢の出身者が熊本で教育を受けたか。明治維新になって東北は新政府に対して刃向かう体制をとった。会津戦争がその例ですが、戊辰戦争が終わってから東北には新政府の高官が派遣されました。岩手県水沢に派遣されたのが、たまたま熊本出身者で、熊本に新しい学校ができると聞き、自分の下にいた秀才の山崎為徳に、「熊本で勉強してみないか」と勧め、「やってみます」と答え、彼は熊本に行ったと、山崎為徳の伝記に出てきます。この人は優秀で同志社卒業の1879年から数年間、同志社で教えています。山崎の影響も同志社には残っているのです。彼は肺結核にかかって早くに亡くなりますが、17世紀の英文学者で叙事詩人、シェイクスピアに次ぐイギリスの詩人とされている、ジョン・ミルトンのParadise Lost(楽園喪失)という12巻からなる偉大な詩を、暗記するほど読んでいたのです。御所を散歩しながらミルトンの詩を朗誦したという人であります。

「奉教趣意書」

 第一期生が1875年に熊本洋学校を卒業しますが、第二期生として1872年に入学したのが金森通倫たちです。ところがジェーンズ先生は開校3年目になってから聖書を教え始めた。教室で聖書を教えることを熊本藩は禁じていましたので、教室で教えたのではなく、「皆さんのなかで聖書に興味のある人は土曜日に私の家に来なさい」と土曜日に集まった生徒たちに聖書を教えました。聖書といっても新約聖書の福音書と使徒言行録が中心でした。聖書を面白いと熊本洋学校の生徒たちは思い、皆が一生懸命に聖書を読んだ。当時の聖書の日本語訳は、まだ出ていなかった。英語の聖書にあんなに熱中できる生徒は本当に不思議です。現在では誰でも聖書を持つことができるし、聖書を持っているからといってとがめられることはありません。新島襄の伝記を見ると、江戸時代の末期には、聖書を持っているだけで幕府に知られるとその持ち主は罰を受けた。下手をすると家族全体に罰が及んだ。死刑になる可能性もあったと言われています。ただ、聖書で死刑になった例はありませんから、新島襄が幕末の江戸で聖書を読んでいることがばれて捕まったら死刑になったとは、必ずしも言えないのですが、明治の新政府になってからも聖書に対する疑いの念は日本中で強かったのです。しかしジェーンズ先生から聖書を教えてもらって、聖書は面白いものだと熊本の青年たちは考え始めた。そして1875年の正月休みには、我も我もと英語の聖書を読む連中が出てきた。その熱が全校に高まって年が明けて学期が始まると、皆が「聖書を教えてください」と言い出した。予定していた時間を聖書に振り向けざるを得ないように生徒たちがもっていったのです。彼らは聖書によって日本の後進性に目覚めて、聖書を読むことによって日本をもっと文明的な国にしたいということで、キリスト教の教えを日本中に広めることが自分たちの使命だと考えるようになりました。そういう生徒たちが40人ほど、1876年1月30日、花岡山という低い山に登り、皆で賛美歌を歌った。その賛美歌は当時まだ日本語ではありませんから英語の賛美歌です。賛美歌を教えたのはジェーンズの奥さんのようです。ジェーンズ夫人から習った賛美歌を歌って、彼らが用意した盟約書、自分たちはこれからどういうことをやろうとしているか、花岡山で盟約書を読み上げて、これから先、日本に西教、つまりキリスト教を広めることを自分たちの生涯の仕事にする。たとえ身に危険の迫ることがあっても、イエス・キリストに忠実であろうという決意を表明して学生たちがサインしています。「奉教趣意書」というもので、サインをした「奉教趣意書」は、現在では同志社に保管されています。今出川校地のハリス理化学館同志社ギャラリーに時々展示されます。皆さんも在学中にご覧になることがあると思います。『熊本バンド研究』という本のなかには、口絵に写真が載っています。これで日本のキリスト教がどういうふうに始まったか、日本のキリスト教は熊本と横浜と札幌から始まったと言われていますが、熊本ではキリスト教を宣べ伝えることを自分の仕事としている宣教師がやったのではなく、普通の人、かつて軍人であったジェーンズがそれをやったということが非常に面白いことが分かります。

熊本バンドの人たち

 横浜は日本初のプロテスタントのキリスト教会ができたところで、ジェームズ・バラやヘボンといった宣教師たちによって始められました。札幌のキリスト教はウィリアム・スミス・クラークが始めました。クラーク先生はアーモスト大学出身でアーモストの町にできたマサチューセッツ農科大学の学長をしていた人です。1年間だけ日本に来てもらって、札幌農学校の最初の学生を指導してもらう意味でのお雇い外国人として、日本政府が招いたのです。しかし、1年間とはいうものの、当時は飛行機がなく、行き帰りに2カ月、3カ月かかるので、彼は7カ月くらいしか教えていませんが、それでもクラークは大事な仕事をした。札幌農学校第一期生に「イエスを信じる者の盟約」を自ら書きまして、それに賛同する生徒はこれにサインしなさいとサインさせました。私は熊本のジェーンズと札幌のクラークのことを思うたびに不思議なことが起こるものだと思います。横浜は東京のすぐ近くですから話は分かりやすいですが、札幌のような北海道の地に、熊本のような九州の西の端の地に、化学者、植物学者であるクラークや、元来、陸軍士官学校の軍人であるジェーンズといった、宣教師ではない人たちが、ある時期に、キリスト教を運んできて、日本の当時の若者たちに非常に影響を与えたことの背景に、不思議さを感じざるを得ないと思っています。
 熊本バンドの一人、金森通倫は牧師であると杉井先生は言っています。しかし牧師以外の仕事もしたわけですから、牧師だけで括ることは問題がないわけではありません。

肥後の国玉名郡小天本村に生まれる。1872年(明治5年)8月、熊本洋学校第二期生として入学。ジェーンズの教育を受け、76年1月、「花岡山奉教結盟」に加わる[花岡山での宣言文に署名した]。同年秋、同志社英学校に入り、12月3日、京都第二基督公会(同志社教会)において新島襄から受洗。79年6月、余科を卒業[余科というのは熊本から来た学生たちはすでにジェーンズ先生によって教育を受けていますから神学に重点をおいた教育をする課程を新島襄は作った。それを余科と呼んでいます]。翌年10月、岡山教会の創立に際し、按手礼を受けて初代牧師となる。86年9月、同志社に移り、88年9月、新島を助けて社長代理となる。89年6月には普通学校、同志社神学校、予備校3校の校長を兼任した。その間、同志社の「一銭講」「二円講」を始め、同志社大学設立募金運動に尽瘁。90年1月、新島の死後、上京し、7月東京番町教会牧師となる。91年、『日本現今之基督教並ニ将来之基督教』を出版して新神学の信仰を公表し、翌年4月、そのために日本組合基督教会を脱会した。その年、自由党に入党し、『自由新聞』の主筆となった。94年の脱党後は三井鉱山株式会社、武相鉄道株式会社、東京米穀取引所など実業界で活躍。1901年8月から北海道庁嘱託となり、全道の勤倹貯蓄奨励運動に従事。04年2月、大蔵省嘱託として全国的貯蓄遊説を始め、10月以降は独力でその奨励運動を進める。09年5月以降は内務省嘱託となって地方改良・勤倹貯蓄奨励運動を展開。12年5月、妻・小寿没後、信仰へ回帰して組合教会に復帰し、翌年、内務省嘱託を辞め、14年、山室軍平の救世軍に入隊して金森特務運動を展開。17年には救世軍を脱隊し、諸教会連合全国伝道を始めた。27年3月、東洋宣教会ホーリネス教会に入会。百万救霊を唱え、金森伝道を展開したが、32年3月にホーリネスも脱会した。この間、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドなどの海外伝道を積極的に進め、Paul Kanamoriの名は海外にも知られた。33年引退、湘南の嶺山に隠居して洞窟生活を送り、「今仙人」と称された。[講演者註]

(日本キリスト教歴史大事典編集委員会編『日本キリスト教歴史大事典』教文館 1988年)

 以上が『日本キリスト教歴史大事典』に杉井先生が紹介されていることです。

金森以外の熊本バンド

 熊本バンドというのは、L・L・ジェーンズを熊本藩が招いて若者たちに洋学校で教えた。そこで学んでジェーンズの影響のもとにクリスチャンとなった人たちのことです。熊本藩としては熊本の将来のことを考えてジェーンズをアメリカから呼んだのに、志と違ってジェーンズの影響を受けてクリスチャンになったということで困ったわけです。皮肉な話であります。迫害がたちまち起こりました。横井小楠の息子、横井時雄は熊本バンドの重要なメンバーです。後に同志社の第三代の社長を務めました。横井のお母さんは津世子といいます。お母さんは息子がクリスチャンになったことはご先祖に対して相済まないと考えました。武士の妻は常に身を守るために懐剣、女性の持つ小さな刀を備えていました。その懐剣を抜いて「お前は直ちに耶蘇教を捨てなさい。さもなければ、ご先祖に対して相済まないからこの懐剣で自殺しなさい」と迫ります。時雄は「私は耶蘇を捨てません。自殺もしません」と答えた。お母さんは「24時間あげるから、その間に考え直しなさい。もしもお前が耶蘇教を捨てないのであれば私が自害します」。24時間以内に息子が死ぬか、お母さんが死ぬか。金森は横井時雄の親友でしたから横井家に行って「ぜひ時雄君に会わせてください」と頼む。お母さんは真っ青な顔をして「会わせることはできません。どうしても時雄に会いたいのであれば私を殺してからにしてください」。生きるか死ぬかの問題です。本当にきつい話です。そういうことがあり、金森は「明日の今時分、時雄が死んでいるか、お母さんが死んでいるかどっちかだ」と思って行ったら奇跡的にどっちも生きていた。ある説によれば、お母さんが自決しようとするので、時雄は懐剣を取り上げようとして揉み合いになったと伝わっています。
 吉田作弥という生徒の父親は、武士でしたから刀を抜いて息子の前で「今すぐ耶蘇をやめろ、さもなければお前を切り殺す」と迫った。金森の父親は2、3年前に死んでいましたから兄が金森家の当主でした。兄は弟を責めて「耶蘇教を捨てろ」と迫る。親戚もよってたかって金森を説得したのですが、聞かないので座敷牢に入れられたと自伝に出てきます。
 海老名弾正は福岡県柳川出身で熊本ではないのですが、彼もよく頑張る若者でした。彼は後に牧師になり、同志社の総長を務めた人です。同志社のアカデミックな面は海老名総長時代から始まると言われています。野心家でもあり、東京大学の赤門の近くの(弓町)本郷教会の牧師をやっていました。そこには何人かの東大の先生や東大生の教会員もいて、彼らに非常な影響を与えました。そのため、彼が後に同志社総長になったときに、東大のアカデミックな若い学者を次々に同志社に引っ張って来た。それが海老名弾正です。
 あるいは浮田和民、この人はジェーンズがかわいがっていた弟子の一人で、ジェーンズ先生を大事にしました。浮田和民はキリスト教の信仰という点では自由主義に走っていき、同志社の宣教師たちと相入れなくなって宣教師対浮田和民の闘争が始まります。特に新島の死後、激しくなり、宣教師たちは浮田を最も危険な人物とみなしていました。結局は同志社にいるわけにいかなくなって東京専門学校に移る。今の早稲田大学です。早稲田の名物教授と言われた浮田はジャーナリストとしてのセンスもあり、博学者でもありました。
 下村孝太郎は熊本バンドのなかで唯一理系の人で、マサチューセッツ州のウスター工科大学に留学して、いい成績をあげて次にはジョンズ・ホプキンス大学で化学を専攻した人です。新島襄にもかわいがられて、新島は下村を同志社における自然科学部門の責任者、指導者にしようとしました。下村は新島の期待に応えています。しばらく同志社の社長も務めました。
 もう一人、宮川経輝は大阪教会の牧師で大阪教会オンリーで通した人です。同志社にもやって来て後輩を指導しています。
 もう一人大事な人は小崎弘道。東京の霊南坂教会の牧師であり、番町教会の牧師もしました。霊南坂教会は東京で最も大きなプロテスタント教会の一つで、代々、同志社の神学部の出身者がそこの牧師を務めています。小崎弘道は東京で、宮川経輝は大阪で頑張っており、海老名弾正は、新島先生の先祖が代々住んでいた安中で働いた。横井時雄は愛媛県今治で働いた。そして金森通倫は岡山で働いた。かつて日本のプロテスタンティズムのうちの組合教会と言われるのは岡山の金森通倫、今治の横井時雄、安中の海老名弾正、東京の小崎弘道、大阪の宮川経輝と、錚々たる連中が指導していたのです。同志社は彼らの影響が及んで今日に至っています。
 「熊本バンド」の簡単な紹介をもって、今日のお話を終わらせていただきます。ご静聴ありがとうございました。

2014年6月11日 同志社スピリット・ウィーク春学期
京田辺校地「講演」記録

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