講演 |
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金森通倫(みちとも)の自伝から学ぶこと
金森通倫とその妻 現役のころ、京田辺校地におきまして2年間だけ教える機会がありました。このキャンパスはそのころからすると見違えるようになっていまして、同志社大学の京田辺校地は日本で最も美しいキャンパスの一つであると確信しております。すばらしいキャンパスで学ぶことができる皆さんを羨ましく思います。 妻の死に永遠を見る 金森通倫の25年連れ添った奥さんが、ある日、突如として亡くなる。その場面を電車の中で読んでおりました。何日間か病床にあった小寿さんを金森は病床に付き添って看病していて、ある瞬間に小寿さんは痙攣してそのまま息絶えた。そのことに彼は感銘を受けたと書いています。今まで生きてニコニコ笑っていた人が、次の瞬間にものを言わない、心臓も止まる、だんだんと体温が冷えていく。それを見て、一体、人間の命は何だろうと考えさせられた。そしてその時の金森通倫の感想は「結局、自分は妻の死の瞬間において永遠というものを垣間見たのである」と言っています。この本は英語の本ですが、永遠はEternity、永遠を私は覗き見た。その永遠に人間が直面するときには、この世的な考え方は全部捨て去ってしまう。死にかかっている少女がどれほどのダイヤモンドを見せられて「お前にあげるよ」と言っても彼女は喜ばないだろう。この世とおさらばする瞬間にはこの世的なものは一切、価値を失うのだ。それが永遠というものの特色なのだと悟ったと金森通倫は書いています。 金森の略歴 金森通倫を人びとは金森ツウリンと言っています。間違いではありません。しかし金森の英語のサインは、Paul M. Kanamoriと、ミドルネームはMです。自叙伝のなかで、聖書に出てくる使徒パウロからPaulという名前を採用したとあります。つまり自分のクリスチャンネームにPaulを選んだ。それは熊本洋学校の先生であるL・L・ジェーンズから使徒パウロの生き方を聴いて感激して「このなかで使徒パウロのような仕事をする人がいないか」とジェーンズが言ったとき、「私がそれをやります」と答えたのが金森通倫だったそうです。それでPaulという名前を採用したと自分で書いています。その次のM、通はミチと読みますが、倫をどう読むか。杉井六郎先生は同志社大学人文科学研究所教授を務めた、初期の同志社や新島、徳富蘇峰に詳しい方で、その先生が「みちとも」という読み方を提案して以来、金森ミチトモできています。金森自身が自分の名前をミチトモと言っている箇所に出会ったことはありませんが、Paul Mとあるから、多分「ミチ」までは正しいですが、倫を「トモ」と読めるかどうか、普通は「ミチ」と読みますが「ミチミチ」ではおかしいので、杉井先生は「ミチトモ」と読ませたのでしょう。 熊本洋学校のジェーンズ 明治維新のとき熊本藩は、薩摩や長州に後れをとりました。そこで熊本藩の殿様、細川家を補佐していた上級武士たちはどうやって薩摩、長州に追い越されたものを埋め合わせるか、それにはまず藩の子弟を教育する必要があるということで熊本に洋学校を造ったのです。しかし、自叙伝をよく読んでみると熊本藩は最初から洋学校を造るつもりはなかった。熊本藩の戦力を高めるために兵学校、または士官学校、武士の集団をリードする士官を養成する軍事学校を造ろうとしていたようです。そこでアメリカから教官を迎えることにして、責任者たちはぜひ軍人を回してほしいと長崎にいたフルベッキという宣教師にお願いに行った。フルベッキは熊本藩からの願いを本国に伝えて、探した結果、ジェーンズというアメリカ陸軍の砲兵大尉が推薦されたわけです。ジェーンズは南北戦争にも出ていて、陸軍士官学校出身でもある。士官学校で教官をした経験がある。まさに熊本藩の要求にぴったりの人物であるとしてジェーンズが選ばれました。ジェーンズは最初、軍人の養成をするつもりで来たのです。ところが横浜に着いたころ、明治初期の日本政府は熊本に軍事学校を造ってはならないと禁止命令を出した。当時、藩に軍事学校を造ろうという動きはあったのです。現に沼津には沼津兵学校ができました。軍人を指導する士官を養成するのは日本国自体がやるべきであり、各藩がそんなことをやっては将来また日本で内乱が起こるかもしれない。日本政府が熊本に軍事学校を造ることを禁止する決断をしたのは正しかったと思います。熊本藩はせっかくアメリカからジェーンズという教官を呼んでいるのに、もういい、帰ってください、とは言えませんでした。それで軍事的なことではなく、一般の学問を教えてくださいと頼んだ。ジェーンズはそれを引き受けた。彼は自信があったのです。彼は日本語を使わず英語オンリーで熊本の青年たちを教えました。熊本藩は誰でも入学できるのではなく、試験をして合格した者だけを100人ほど選んで熊本洋学校の生徒にしました。そこにジェーンズ先生が来たのです。 山崎為徳彼は熊本の青年ではなく東北の岩手県水沢の出身です。なぜ水沢の出身者が熊本で教育を受けたか。明治維新になって東北は新政府に対して刃向かう体制をとった。会津戦争がその例ですが、戊辰戦争が終わってから東北には新政府の高官が派遣されました。岩手県水沢に派遣されたのが、たまたま熊本出身者で、熊本に新しい学校ができると聞き、自分の下にいた秀才の山崎為徳に、「熊本で勉強してみないか」と勧め、「やってみます」と答え、彼は熊本に行ったと、山崎為徳の伝記に出てきます。この人は優秀で同志社卒業の1879年から数年間、同志社で教えています。山崎の影響も同志社には残っているのです。彼は肺結核にかかって早くに亡くなりますが、17世紀の英文学者で叙事詩人、シェイクスピアに次ぐイギリスの詩人とされている、ジョン・ミルトンのParadise Lost(楽園喪失)という12巻からなる偉大な詩を、暗記するほど読んでいたのです。御所を散歩しながらミルトンの詩を朗誦したという人であります。 「奉教趣意書」第一期生が1875年に熊本洋学校を卒業しますが、第二期生として1872年に入学したのが金森通倫たちです。ところがジェーンズ先生は開校3年目になってから聖書を教え始めた。教室で聖書を教えることを熊本藩は禁じていましたので、教室で教えたのではなく、「皆さんのなかで聖書に興味のある人は土曜日に私の家に来なさい」と土曜日に集まった生徒たちに聖書を教えました。聖書といっても新約聖書の福音書と使徒言行録が中心でした。聖書を面白いと熊本洋学校の生徒たちは思い、皆が一生懸命に聖書を読んだ。当時の聖書の日本語訳は、まだ出ていなかった。英語の聖書にあんなに熱中できる生徒は本当に不思議です。現在では誰でも聖書を持つことができるし、聖書を持っているからといってとがめられることはありません。新島襄の伝記を見ると、江戸時代の末期には、聖書を持っているだけで幕府に知られるとその持ち主は罰を受けた。下手をすると家族全体に罰が及んだ。死刑になる可能性もあったと言われています。ただ、聖書で死刑になった例はありませんから、新島襄が幕末の江戸で聖書を読んでいることがばれて捕まったら死刑になったとは、必ずしも言えないのですが、明治の新政府になってからも聖書に対する疑いの念は日本中で強かったのです。しかしジェーンズ先生から聖書を教えてもらって、聖書は面白いものだと熊本の青年たちは考え始めた。そして1875年の正月休みには、我も我もと英語の聖書を読む連中が出てきた。その熱が全校に高まって年が明けて学期が始まると、皆が「聖書を教えてください」と言い出した。予定していた時間を聖書に振り向けざるを得ないように生徒たちがもっていったのです。彼らは聖書によって日本の後進性に目覚めて、聖書を読むことによって日本をもっと文明的な国にしたいということで、キリスト教の教えを日本中に広めることが自分たちの使命だと考えるようになりました。そういう生徒たちが40人ほど、1876年1月30日、花岡山という低い山に登り、皆で賛美歌を歌った。その賛美歌は当時まだ日本語ではありませんから英語の賛美歌です。賛美歌を教えたのはジェーンズの奥さんのようです。ジェーンズ夫人から習った賛美歌を歌って、彼らが用意した盟約書、自分たちはこれからどういうことをやろうとしているか、花岡山で盟約書を読み上げて、これから先、日本に西教、つまりキリスト教を広めることを自分たちの生涯の仕事にする。たとえ身に危険の迫ることがあっても、イエス・キリストに忠実であろうという決意を表明して学生たちがサインしています。「奉教趣意書」というもので、サインをした「奉教趣意書」は、現在では同志社に保管されています。今出川校地のハリス理化学館同志社ギャラリーに時々展示されます。皆さんも在学中にご覧になることがあると思います。『熊本バンド研究』という本のなかには、口絵に写真が載っています。これで日本のキリスト教がどういうふうに始まったか、日本のキリスト教は熊本と横浜と札幌から始まったと言われていますが、熊本ではキリスト教を宣べ伝えることを自分の仕事としている宣教師がやったのではなく、普通の人、かつて軍人であったジェーンズがそれをやったということが非常に面白いことが分かります。 熊本バンドの人たち 横浜は日本初のプロテスタントのキリスト教会ができたところで、ジェームズ・バラやヘボンといった宣教師たちによって始められました。札幌のキリスト教はウィリアム・スミス・クラークが始めました。クラーク先生はアーモスト大学出身でアーモストの町にできたマサチューセッツ農科大学の学長をしていた人です。1年間だけ日本に来てもらって、札幌農学校の最初の学生を指導してもらう意味でのお雇い外国人として、日本政府が招いたのです。しかし、1年間とはいうものの、当時は飛行機がなく、行き帰りに2カ月、3カ月かかるので、彼は7カ月くらいしか教えていませんが、それでもクラークは大事な仕事をした。札幌農学校第一期生に「イエスを信じる者の盟約」を自ら書きまして、それに賛同する生徒はこれにサインしなさいとサインさせました。私は熊本のジェーンズと札幌のクラークのことを思うたびに不思議なことが起こるものだと思います。横浜は東京のすぐ近くですから話は分かりやすいですが、札幌のような北海道の地に、熊本のような九州の西の端の地に、化学者、植物学者であるクラークや、元来、陸軍士官学校の軍人であるジェーンズといった、宣教師ではない人たちが、ある時期に、キリスト教を運んできて、日本の当時の若者たちに非常に影響を与えたことの背景に、不思議さを感じざるを得ないと思っています。 肥後の国玉名郡小天本村に生まれる。1872年(明治5年)8月、熊本洋学校第二期生として入学。ジェーンズの教育を受け、76年1月、「花岡山奉教結盟」に加わる[花岡山での宣言文に署名した]。同年秋、同志社英学校に入り、12月3日、京都第二基督公会(同志社教会)において新島襄から受洗。79年6月、余科を卒業[余科というのは熊本から来た学生たちはすでにジェーンズ先生によって教育を受けていますから神学に重点をおいた教育をする課程を新島襄は作った。それを余科と呼んでいます]。翌年10月、岡山教会の創立に際し、按手礼を受けて初代牧師となる。86年9月、同志社に移り、88年9月、新島を助けて社長代理となる。89年6月には普通学校、同志社神学校、予備校3校の校長を兼任した。その間、同志社の「一銭講」「二円講」を始め、同志社大学設立募金運動に尽瘁。90年1月、新島の死後、上京し、7月東京番町教会牧師となる。91年、『日本現今之基督教並ニ将来之基督教』を出版して新神学の信仰を公表し、翌年4月、そのために日本組合基督教会を脱会した。その年、自由党に入党し、『自由新聞』の主筆となった。94年の脱党後は三井鉱山株式会社、武相鉄道株式会社、東京米穀取引所など実業界で活躍。1901年8月から北海道庁嘱託となり、全道の勤倹貯蓄奨励運動に従事。04年2月、大蔵省嘱託として全国的貯蓄遊説を始め、10月以降は独力でその奨励運動を進める。09年5月以降は内務省嘱託となって地方改良・勤倹貯蓄奨励運動を展開。12年5月、妻・小寿没後、信仰へ回帰して組合教会に復帰し、翌年、内務省嘱託を辞め、14年、山室軍平の救世軍に入隊して金森特務運動を展開。17年には救世軍を脱隊し、諸教会連合全国伝道を始めた。27年3月、東洋宣教会ホーリネス教会に入会。百万救霊を唱え、金森伝道を展開したが、32年3月にホーリネスも脱会した。この間、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドなどの海外伝道を積極的に進め、Paul Kanamoriの名は海外にも知られた。33年引退、湘南の嶺山に隠居して洞窟生活を送り、「今仙人」と称された。[講演者註] (日本キリスト教歴史大事典編集委員会編『日本キリスト教歴史大事典』教文館 1988年) 以上が『日本キリスト教歴史大事典』に杉井先生が紹介されていることです。 金森以外の熊本バンド 熊本バンドというのは、L・L・ジェーンズを熊本藩が招いて若者たちに洋学校で教えた。そこで学んでジェーンズの影響のもとにクリスチャンとなった人たちのことです。熊本藩としては熊本の将来のことを考えてジェーンズをアメリカから呼んだのに、志と違ってジェーンズの影響を受けてクリスチャンになったということで困ったわけです。皮肉な話であります。迫害がたちまち起こりました。横井小楠の息子、横井時雄は熊本バンドの重要なメンバーです。後に同志社の第三代の社長を務めました。横井のお母さんは津世子といいます。お母さんは息子がクリスチャンになったことはご先祖に対して相済まないと考えました。武士の妻は常に身を守るために懐剣、女性の持つ小さな刀を備えていました。その懐剣を抜いて「お前は直ちに耶蘇教を捨てなさい。さもなければ、ご先祖に対して相済まないからこの懐剣で自殺しなさい」と迫ります。時雄は「私は耶蘇を捨てません。自殺もしません」と答えた。お母さんは「24時間あげるから、その間に考え直しなさい。もしもお前が耶蘇教を捨てないのであれば私が自害します」。24時間以内に息子が死ぬか、お母さんが死ぬか。金森は横井時雄の親友でしたから横井家に行って「ぜひ時雄君に会わせてください」と頼む。お母さんは真っ青な顔をして「会わせることはできません。どうしても時雄に会いたいのであれば私を殺してからにしてください」。生きるか死ぬかの問題です。本当にきつい話です。そういうことがあり、金森は「明日の今時分、時雄が死んでいるか、お母さんが死んでいるかどっちかだ」と思って行ったら奇跡的にどっちも生きていた。ある説によれば、お母さんが自決しようとするので、時雄は懐剣を取り上げようとして揉み合いになったと伝わっています。 2014年6月11日 同志社スピリット・ウィーク春学期 |
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